禅とハードル


南直哉さんと為末大さんの対談を収めた本。二人とも思考が深すぎる…

 

 

 

縁起

お墓参りに行った時とか仏壇に拝むとき、お供え物しますよね。お供えする先に、本当に死んだ人はいるのでしょうか。目の前に霊となって見えないけれども存在している?

実際のところ分からないですし、個人的にはそこに死んだ方の霊はいないと思います。

 

しかし、そこにもともと霊がいるかどうかが重要なのではなく、霊はお供え物をする行為によって立ち上がるものです。

 

お供えをした瞬間に、備えられる対象が儀礼的な行為を受けるものとしてそこにあるということになります。事実がどうかはともかくです。

行為が存在を決めると言ったときに重要なのは、ある行為があるところで起こってしまうと、その結果としてその対象とそれをする主体の側がいやおうなく立ち上がってしまうということなんですよ。

 

 

 

もっと言えば、行為が自分をも規定しています。

 

例えば、椅子。目の前に椅子があったとして、それは人が座るから椅子なのです。

もし人が座らずに紙が飛んでいかないようにする重しとして使ったなら、それは椅子ではなく重しになります。ストレス発散の為に投げ飛ばして使っていたら、それは椅子ではなく「投げ飛ばされるためのモノ」になるわけです。

 

全ては行為によって規定されています。

 

一般的には、AとBがあってその間に関係が生まれると考える。しかし仏教は違う。関係があるから、その存在が生まれると考えるんです。

 

 

 

静素

本当に意識高い人って「俺意識高いんだぜ!」感を出さないし、出ない。

本当に洗練されたものはそれに存在を感じないところまでいくらしいです。

 

瞑想もオーラが放たれてる瞑想よりも、何も感じない、呼吸すらしているのかどうか分からないような何もない瞑想が良いと南さんが話してらっしゃいます(良い悪いの話ではないのかもしれませんが,,,)

 

また、自己を意識してはいけないし、こういう風に座ろう、こういう風にやろう、と思っている時点でもうダメだと。

 

 

 

 

人間は根源的に受動的

僕は「よーし、今から北田直也として生まれるぞ~!」と思い勇んで生まれてきたわけではなく、たまたま生まれた結果様々なプロセスを経て、今の北田直也になったわけです。別に望んでこの形になったわけじゃない。

 

つまり、生を受けるというのは受動態なわけです。人間はそもそも受動的にスポーンと生まれてくるのだから、本質は自発ではなく受動であり、「応答」であると言います。

 

だからこそ、自己とは行為や関係性に応答する形ではじめて立ち上がってくるものであり、ハコとしての自分は自分ではなく、“本物の自分”なんてものは存在せず、自分とは自分との「ズレ」のことなのです。

 

 

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