禅寺に修行に行ってきた話


修行と呼べるかは微妙ですが、宝泉寺に短期(3泊4日)の修行体験に行ってきました。

毎日のスケジュールはこんな感じ

 

禅について全くと言っていいほど理解できていませんが、(理解できないからこそブログ書いているとも言えますが、)少し考えたことをシェアさせてもらえたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

調身・調息・調心

すべての基本になると思ったのは「調身」。身を整える。つまり、「姿勢を正す」。

ただそれだけのことが如何に出来ていないか。

姿勢を正さなければ正しい呼吸ができず、正しい呼吸が出来なければ心を整えることができない。

 

まず姿勢。

 

 

では「正しい姿勢」とは何か。それは「気を付けの姿勢」。気を付けの時に背が曲がっていたり、横に逸れている人はいない。座禅を組んでいるときも上半身が「気を付け」の時と同じ姿勢を保つ。

 

 

正しい姿勢を作るのに大事だと気づいたのは、「姿勢を正す」は厳密には誤りだな、と。正しくは「姿勢が正しくなってしまうような位置に身体を配置する」です。

 

背筋を伸ばすぞ~と筋力で無理やり伸ばしても疲れるので、いずれ曲がり、崩れます。無理やり整えるのではなく、骨盤の重心の上に背骨を置く。

 

ご飯を食べる時もそうでした。

姿勢を正しながら食べるぞ~と意気込むのではなく、姿勢が伸びる位置までお椀を高く持ち上げる(あごの高さまで)。それだけで背筋は伸びます。伸びざるを得ない。

 

 

たぶん、世の中そういうものなのでしょう。

 

さあ、仕事頑張るぞ~、と無理やり頑張るのではなく、頑張ってしまうように自分を配置する。

 

優しい人間になるぞ~、と無理やりなるのではなく、優しい人間になってしまうように自分を配置する。

 

 

小手先の力みより、幹の力の方が絶大だということを感じました。

 

 

 

 

調身が終われば、調息、そして調心。

調息・調心は全くもって理解できていません。(調身もやけど)

ただ、面白かったのは、こんなにも音があるのか!!!という衝撃でした。

 

自分の身体の中に無数の音があり、こんなにも自分の身体、そして空間は賑やかだったのかということを思いました。

 

忙しない日常ではキャッチできない音。

 

心臓の脈打つ音。血液が巡る音。空気が鳴る音。エネルギーが湧き出てくることを連想させる音。それらの音は言語することはできません。言語化することができない故に、耳で聴きとることはできない気がしました。

 

心臓の脈打つ音も全くもって「ドクンドクン」ではない。そんな6文字のカタカナで表せるような浅い音ではなかったです。

聞いていることが心地よい、自分の音を聞いているだけで喜ばしい、笑ってしまいそうになる「機能快」の一つが自分の中にあります。

 

 

無理やり働いて、何か「良いもの」をわざわざ得なくても、目をつぶり、自分の音を聞くだけで心地よく喜びが溢れるのだと思いました。

 

 

 

今後は、もっと鍛錬を重ねて座禅をもっと深めたいと思います。座禅を毎日繰り返している雲水(修行の方)や和尚様は僕とは見えている世界が全く違うのだろうと強く感じました。

 

 

 

ニュートラル

宝泉寺には「常住」と呼ばれる長期で修行をされる半分スタッフみたいな方々がおられます。

その人たちが(僕的に)凄まじかった。

僕の目指す人間像みたいなのを体現されてるような方がいて、すげえなぁ…の一言に尽きました。

 

感情がニュートラルというか、自分の芯があるというか、なんというんでしょうか。

人を注意するときは、その行為の間違いを指摘するのであって、その人の存在を否定するわけではない。注意という行為の純粋さが極まっていました。

あなたと私は人間として対等。ただ、自分の方が作法を良く知っているから、ただ純粋にその点においてのみ優れているから、ただ教え、ただ注意する。

 

傲りもない、恐れもない、迷いもない、萎縮もなく、傾倒もなくただただ純粋に行為であり、その人であるという純粋さ。

 

 

たぶん既に僕の言ってる内容が伝わってない気がしますが(笑、人との接し方、謝り方、反射の仕方、歩き方、声の出し方、呼吸の仕方。そのニュートラルさに学ぶところが多すぎて、さらにそれを自分と同じ年代の人が行っていることが驚愕でした。

 

ニュートラルな行為というのは、温かみも悲しみもなく温度がない行為のように思われますが、本当にニュートラルな行為(感情)(人)というのは、洗練されており、美しく、その中に感謝を内包しており、既に温かいものだと感じました。

 

なぜ温かいと思うのか、なぜ感謝を内包しているのかはわかりませんが、そう感じました。とても温かい。

 

 

 

ニュートラルに関して、もう少し話を進めると、僕が言う「ニュートラル」とは「バイアスも恣意性も介在していない+-ゼロの状態」のことです。

 

 

完全に僕の主観にはなりますが、

 

「禅」とは、「ニュートラル」ということだと思いました。

 

 

「自分」とは「我」であり、それはニュートラルではない。その「我」から見る世界は何一つニュートラルではないし、世界などない。

「我」をこえて自分が「ニュートラルな箱、もしくは器」であることによって、行為そのものになることが出来、自分と他人と世界の境界がなくなり、生も死もなく、すべてが一つになりすべてがゼロになるという。そういった境地。

 

 

…と思ったのですが、言語化するとなんて浅く薄っぺらいものに聞こえるのか。やめましょう(笑)

 

 

 

 

資本主義社会と禅の性質

上記のような、「禅」の解釈を言語化すると薄っぺらく聞こえるのは、まあ、当然といえば当然なんだと思います。

 

なぜなら、「禅」は意味づけや枠や様式化から脱した状態であるものだからです。ややこしくてすみません(汗

 

まず言語化した時点で何かを規定し、共通理解ができるものとして固定化します。

その時点で、もはやニュートラルではないし、バイアスだらけだし、いろいろな“もの”が捨象されています。

 

 

「禅」は本質的に言語と対極に位置するものであるし、そもそも目的が違います。

つまり、本当に「禅」的である人は、僕のようにわざわざ自分から「禅」の解釈をしようともしなければ、もちろん、それをブログにしたりはしないわけです。人にその経験をシェアしようともしなければシェアできるということでもなく、言語化によるシェアという発想自体が浮かばないわけです。

 

 

もうこれは極まった人にしか分からない世界で極まること以外に理解できることはなく、そもそも理解するという概念がない理なのだろうと思いました。

 

…ややこしくてすみません(2回目

 

 

 

 

そこでここからが本題ですが、僕は今回の修行中「どうやったら禅をより一般化し、悩んでいる友達を支える方法とすることはできるのか」ということを大きな主題としていました。

 

その問いに対する答えは

 

そんなことは無理ゲー、というか無意味

 

 

っていうところが妥当だと思いました。

 

 

もう普段僕らが生きている近代社会と、禅的な空間?は全く違うのです。何もかもが違う。文脈もコードも言語も目的も在り様も違う。

 

 

もうこれは悩んでる人が禅を求め、禅を経験し感じること以外無理で、第三者が「エイッ☆」と魔法のように禅をふりかけたら悩みがなくなるみたいな都合のよい話ではないのだと。

 

 

言い換えると、「禅」は広がることを目的としないし、そういった機能を内在しない。

そういった意味で、(広がることと自己増殖を目的とした資本と)資本主義社会の中では、その制度の歪みの対抗策としては不適切です。

 

そこで僕が気づいたのは、本当に「良いもの」と社会で「評価されるもの」は一致するとは限らないし、「禅」を極める人と、それを拡散する人は別に一致していなくてよい(むしろその方が適切)ということです。

 

 

禅を極めれば極めるほど、それは広まらず、俗世からは乖離していきます。だけれども、「禅」的な世界を知ることによって、心が少し楽になる人がいるのは確かだなと思います。(僕は少し自由が深まった気がしています)

 

ので、こういったところで薄っぺらいブログを書くのも一興だと思います(終わり方謎)

 

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