「なぜいま地域通貨なのか~エコマネーからビットコインまで~」地域通貨の第一人者西部教授が語る新しい経済の姿


「新しいお金の形を探るインタビュー企画」記念すべき第一弾は、「地域通貨」に関する研究を長年続けており、理論・実証研究共にたくさんの知見をお持ちの地域研究第一人者・西部忠専修大学教授にお話を伺いました。

 

西部忠

専修大学経済学部教授。分野は進化経済学。地域通貨に精通しており、地域通貨に関する理論研究、実証実験ともに長年行っている。著書に『地域通貨を知ろう』『資本主義はどこに向かうのか』編著に『地域通貨』『進化経済学のフロンティア』など。

 

以下の著書・論文リストからは、たくさんの西部教授の論文がダウンロードできます。より詳しく知りたい人はご参照下さい。

西部教授の研究業績一覧

 

 

1.  今こそ、資本主義ではない市場主義を考える時

2. 「お金の罠」とは「一元的な数値化」である

3. 地域に根差した仮想通貨が必要だ

 

 

 

資本主義のオルタナティブ

僕が地域通貨を研究し始めた背景には、実は資本主義とか社会主義とかいう大きな経済体制への関心がありました。だれもが忘れていますが、昨年はレーニンがロシア革命を起こしてソヴィエト社会主義共和国連邦つまりソ連を樹立してからちょうど100年目の年でした。社会主義・共産主義というのは非常に荒っぽい言い方をしてしまえば、「市場をなくす」、もっとはっきりいうと、「貨幣をなくす」ということです。少なくとも、貨幣をなくし物量的な計画経済で経済を回すこと、それがソ連型の社会主義でした。

しかし、実際の歴史を振り返ってみると、国家が主導した社会主義の実験は、中国という例外を除けば、すべて失敗に終わりました。それによってとてつもない数の人が死に苦しみました。最後にはうまくいったなら、いろいろ失敗もあったけれど方針は正しかったのだから、多くの犠牲も仕方ない、とでも言えたかもしれない。でも、そういうことではなく、「お金をなくそう」っていう考え方には根本的な無理がある、ということが次第にわかってきたのです。

もちろん、ソ連のような中央集権的な計画経済にもメリットはあります。ダムを造る、宇宙船を飛ばす、戦争を行うというような国家的な大型プロジェクトを推進する場合には、市場経済よりもうまくいくかもしれない。でも、そうでない場合、デメリットの方ががとても大きい。企業が中央の指令によってものをつくっていると、需要に関係なく、言われただけのものしかつくらないから、慢性的に物不足になる。一般の消費者は必要な生活物資すら行列に並ばないと買えない。なのに共産党員だけが特権的にものがすぐ買えてしまう。しかも、企業はいわれたこと以外の創意工夫をする必要がなく、イノベーションが起きない。すると、デザイン性や品質の高い自動車や電化製品などの消費財が生まれない。だれもがお金を持って、買うか買わないか、自分で判断して取引するとすると、いいものを安く買おうとするはず。だから、一見すると秩序のない個人のバラバラな取引が、より品質のいいものをより安くしていくような競争を生みだすのです。結果として、売りと買いが全体として何とかバランスしながら、経済の営みは秩序立っていく。また全体として成長していく。一人あたりGDPが成長し、個人所得も増えて、人々はモノの面で豊かになった。また、イノベーションが続いて、品質がよくて安いものを手に入れることができるようになった。これらが自律分散的な市場経済のメリットです。

でも、現にある市場経済は、ただの自律分散的な市場経済ではなく、資本主義的な市場経済です。資本主義とは、企業は金儲けのためだけに労働者を雇用し、製品を生産するということです。景気が悪くなって儲からなければ、雇用も生産も行わない。また、本業で儲からなければ、資本としてのお金を増やすために、株や不動産、果ては先物やデリバティブやFXなどの投機にしばしば走ってしまう。リーマン・ショックがその象徴でしょう。その結果、不況や失業、格差と貧困という経済問題が生みだされる。さらに、家族や学校といったコミュニティが壊れ、人々のつながりは寸断されて、母親による幼児虐待や学校でのいじめが深刻化していくのです。

ソ連・東欧の社会主義圏が崩壊する1990年代以降、計画経済よりは市場経済の方が断然よいと考えられてきたのですが、21世紀に入ると、こうした資本主義のデメリットがだんだんと目立ってきて、ついに自律分散的な市場経済のメリットを上回るまでになってきた。だから、資本主義を見直した方がいいという声が広がってきているのです。

若い人には意外なことでしょうが、1990年代以前は資本主義市場経済か社会主義計画経済かという二者択一しかないと思われてきた。だから、資本主義市場経済をやめるってことは、当然、社会主義計画経済になることだと考えられた。だけど、もはや今は、資本主義をやめる、すなわち、ソ連型社会主義になる、と考える必要はなくなった。社会主義にも、お金をなくして計画経済でやるソ連以外の方法があるかもしれないし、少なくともまずは「非資本主義」といえばよいのではないか。で、「非資本主義」の後に何がくっついてくるのかというと、物量経済でも計画経済でもなく、市場経済なのです。つまり、非資本主義市場経済。資本主義じゃない市場経済というわけですね。我々は資本主義は避けたいけれども、市場の便利さやメリットは享受したいわけです。だから、資本主義じゃない市場経済を模索する、この方向性が重要なポイントになる。

市場経済とは、言い方を変えれば、貨幣を使う経済、貨幣経済です。貨幣をものの売買に使うけど、貨幣を資本として使わないような市場経済こそ、資本主義じゃない市場経済です。この非資本主義市場経済をどう作るかっていうのが、僕の研究の大きな動機になっているわけですね。

 

 

 

貨幣がなくなる時代は来るか

資本主義のオルタナティブとして貨幣がなくなるといった書籍が出てきているのは知っています。でも、どういう根拠でそう言っているのかはよく知りません。案外近いことを言っているのかもしれないけど、僕は「お金がなくなる」ってことをそう軽々といってはいけないと思っているので、そのようなものに対しては少し警戒感を抱いています。貨幣をなくすことは不可能とまでは言えないけれど、すぐに実現するのは著しく困難だった。これまでのソ連型社会主義の歴史、100年以上の試行錯誤の中で成功したことはなかった。その理由は、貨幣のない経済が根本的欠陥を抱えていたからです。なので、「お金がなくなる」かどうかはもっと慎重に考えた方がいいと思っています。

お金がなくなるかどうかについては、もう少し違うニュアンスで言いたい。お金を一挙に消すことはできないにせよ、少しづつ変えることはできるのではないか。その結果、最終的になくなるってことがあるかもしれない。これからお金が徐々に変わっていくと、どこかでお金がお金でない何ものかになるはずです。そうなれば、結果的には、お金はなくなった、といえるでしょう。毛虫がサナギになり、最後に美しい羽を持つチョウになったとき、毛虫はなくなったというのと同じです。いまは、毛虫がチョウになる、貨幣が貨幣でないものになる、そこへ向けての「過渡期」といってもいいかもしれない。ただ、「過渡期」っていう言葉は、社会主義を語るときもよく使われていたんですよね。貨幣なき共産主義に至る過渡期が社会主義。社会主義には貨幣が残る、だけど、最終的に貨幣は無くなるんだと。そのように言われてきたけど、いつまで経っても過渡期だった。なので僕はそういうものを安易に考えるのは危ないと思っているのです。

 

例えば、口座型地域通貨であるLETSみたいなものを考えた時、あれは貨幣ですか、貨幣ではないのですか、一体どう思いますか?ミクロ的に見てみると、プラスの口座に債権っぽいものを持っている人がいて、他方にマイナスの口座に債務っぽいものを持っている人がいる。だけど、それは、私たちが生きている資本主義市場経済における借金の貸し借り、二者間の債権と債務とはだいぶ意味が違うわけ。だから、 LETSもお金のように見えるけど、それって本当のところお金なのっていう議論は起きて当然なんですよ。LETSではコミュニティ内の多くの参加者どうしが貸し合い、助け合いしていくので、ある時点で全体を眺めれば、必ずある人はプラス、別の人はマイナスになっているんです。こういう状態が各参加者のプラスやマイナスの口座残高に表れているだけで、二人の間の貸し借りの関係ではないんです。プラスやマイナスは参加者全員からなるコミュニティへの貸し、コミュニティからの借りとして記録されている数字にすぎない。

でも、私たちは資本主義の影響を強く受けているので、そのことをうまく理解できなくなっている。人類のこれまでの歴史では、LETSの助けを借りずに人々は村単位でそれをやっていました。だけど、資本の貸し借りで動いていく資本主義がグローバル化している現代では、LETSの助けを借りてそれを可視化しないとうまくやれない。LETSでは、プラスが貨幣だとも考えられるし、いやいや、そんなのただの記録にすぎないとも言えます。円のような貨幣を持っているのはどういう状態を表しているのか、実はよく考えないといけない話なんです。

 

 

 

価値を数値化するということ

現状のお金の問題を考える時に、私がよく出す例として「命名権」とか「二酸化炭素排出権」とかがあります。目新しい権利やコトを売りに出して、それを買ってくれる人が現れれば、何でも商品になってしまいます。ビジネスマンはこれをかっこつけて「マネタイズ」と言いますが、どんなものも「貨幣」と交換されれば商品になるということ。主流の経済学者は、資源を効率的に配分する価格メカニズムとして市場を使っている、そうすれば、自由でフェアな競争をが実現するはずだといっていますが、ビットコインを見ればわかるように、オークション型の市場を入れるだけではバブルとその破裂が必ず起きてしまい、資源の効率性も価格の安定性も実現されません。どこにでも何にでも市場を適応すればいいのかと言えば、まったくそうではない。もし、家で出される食事にいつも代金を払うとすれば、一体何が起こるのか想像してみてください。そうなれば、家族という共同生活の場、コミュニティは崩壊し、市場になってしまうでしょう。人類の長い歴史の中では、この図のように、我々は社会を「市場」と「コミュニティ」と「国家」に分けて考えてきていて、それぞれその領域の中で違う原理を適用してきたわけですね。
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市場は「交換」という機能を担っているわけだけれど、コミュニティは「互酬」、国家は「再分配」という、それと異なる機能を担っている。グローバリゼーションとは、市場が急激に拡大して、コミュニティや国家の領域を侵食し、それらが縮小していくことなのです。そうなると、すぐに問題が起こります。どんな問題かと言うと、例えば、市場の原理がコミュニティの領域に入ってくるとします。家族内で家事、育児、介護をしても、もらえるお金は0円ですよね。でも外で働けば、賃金、お金がもらえる。ここで機会費用(Opportunity Cost)の考えが働いて、家の中での労働の価格は0円どころかマイナスとして受け止められてしまう。なんでかというと、家事などをしている間、外で働いていればその分お金がもらえていたはずなので、その分マイナスだというわけです。こう考え始めると、家事、育児、介護はコストとしてマイナスでしかなくなる。勘定ばかりが先に立ち、そこに愛情やケアの感情が存在できる余地がなくなってしまうんです。そうなると、家の中はほったらかし、子供は邪魔、という風になるってしまうのは目に見えています。

人間は物事の単純化を便利だと感じるので、会社での労働ばかりではなく、家事労働や家族との時間もすべて数値化してしまったらどうだろうか、という議論があります。すべての社会領域を市場に置き換えて、あらゆる財、サービス、情報のすべてを数値化してしまおうという考え方もよくありますが、それだとすべて一元化されてしまうのです。お母さんが子供にご飯を作ってあげたら、その都度「はい、○○円。」とお金を取るなら、それは飲食業の商売のようになってしまう。さらに、極論を言えば、1億円の年収の人は年収1000万円の人の10倍、年収100万円の人の100倍の価値というように、人間の価値を数値で測ることになってしまうんですよね。そういう一元的な評価でいいのかと問えば、普通はそれはよくないだろうという答えが出てくるはず。ここで、数値化するといっても、また別のやり方があるよ、法定通貨と異なるお金を自分たちで新たに作って、使っていこうというのが地域通貨です。

 

 

最初は、有償ボランティアだけに使えるお金として「エコマネー」と言われるものが盛んになりました。ボランティアをしたら円ではなくエコマネーがもらえて、ボランティアをしてもらうときにそのエコマネーを払う、というように助け合いが進むはずでしたた。ところが、ボランティア・サービスのやりとりだけではうまくマネーが回らず、一部の参加者がエコマネー長者になってしまった。エコマネーを商店街でものを買えるようにしたほうがよりよく回るのではと少しづつ進化していったのです。結果として、地域通貨は一般的な市場のサービスと非市場的なサービスをうまく繋ぎつつ、一般のサービスとは一線を画すような通貨として存在しています。

 

また、数値化一つとっても難しい問題はたくさんあります。例えば、ボランティアをするともらえる「エコマネー」を作ったとします。1回ボランティアを行うごとに1エコマネーもらえます。でも、お医者さんがボランティアで治療してあげても1エコマネー。ただ単純に落ちてるゴミを拾ったとしても同じ1回なので1エコマネーです。これは同じ重みづけになってしまっているけど、果たしてそれでいいのか?っていう問題が発生しますよね。でも回数で尺度を作るのか、時間で作るのか、異質な労働なのだから比較できないっていう問題が付きまといます。

この尺度についても、いつどこでも妥当するユニバーサルな尺度である必要はなく、所詮ローカルなものにすぎないと考えればどうでしょうか。後者の見方では、そこのコミュニティにいる人たちが納得できる尺度だったらなんでもいい。逆に、ある尺度に同意できるから、そのコミュニティにいると考えてもいいわけです。なので、一個の評価単位の中に全員が入りなさいっていう世界ではなく、自分が納得できる評価単位を持つ通貨コミュニティの中に、入りたい人は自由に入ったらいいんじゃないかということになる。そうすれば、国籍の選択みたいに、どれか一個の通貨コミュニティにしか入れないという専属性は必要なくなるので、複数に所属することもできます。さらにいえば、個々の取引で相手が同意するなら、尺度も柔軟に変えていってもいい。そうすると、コミュニティが分岐していくかもしれない。コミュニティが同じことを考えている、もしくは、おなじことに賛同できる人の集まりと考えれば、こういったことが言えるわけです。

ネット・コミュニティについても、同じことが言えます。そこでは、同じ場所に住んでいる、同じ学校区に属しているローカル・コミュニティよりも、関心コミュニティ(community of interest)が重要になる。通貨の尺度とルールに賛同できる人は一緒にやりましょうというのが基本的な考え方です。コミュニティは日本語では共同体です。かつて日本になった村落共同体は、一旦そこに入ったら、そこの掟にしたがわなければならない、でないと村八分になってしまうような閉鎖的なものでした。しかし、コミュニティをそういうように考える必要はもうなくなってきている。

 

 

市場経済を捉えなおす

大事なのでもう一度、一元的な評価でいいのか問題に戻りましょう。1億円稼ぐ人と1000万円稼ぐ人の価値が違うように評価されるのはオカシイでしょうという話でした。そこで解決策になりそうなことは何か。

今の法定通貨「円」は一元的、数学で言うと「スカラー」で表すことができるんですね。つまり、1次元で表せます。毎日食べる米も芸術も音楽も全てを1次元で評価できるわけがないはずなのに、実際にはそうしている。米1キロ1000円、ピカソの絵1枚100億円というように。これはどこかおかしいのではないか。1次元であらゆる物事の価値を評価しようとするのは単純すぎるので、問題が生まれているのではないか。

だとすれば、多次元の評価ができる貨幣を考えればいいのではないか。多元的とは何かというと多次元、つまり「ベクトル」で表すことができます。X軸、Y軸、Z軸みたいな3次元、あるいは宇宙論でいわれる7次元でも11次元でもいいんだけど、人間の認識能力ではせいぜい4次元くらいしか具体的に想像できないと思っています。多次元を持つ貨幣を創造できるのではないか。ここで、この一本一本のベクトルが何を表しているかということが重要です。そこをよく考えなければならないでしょう。さっき出てきた市場、コミュニティ、国家かもしれないし、自由、平等、博愛かもしれない。はたまた自然とか労働とか情報とかかもしれません。

ただ、今までのお金は一次元的なことしかできませんでした。これからはスマホを使えば多元的なお金を扱えるようになるでしょう。あるいは、人間が使えるようになれなくても、AIが処理してくれるようになるかもしれません。そこはまだ人類が経験していない領域です。目下、それを今研究しています。

 

地域通貨と言うと、なにかこの世界の中で大人がやっているおままごとみたいなイメージを与えてしまうのかもしれないけど、僕が考えているのは、逆に、市場経済というものを別の仕組みから、別の形で捉えなおしてみようということです。地域通貨というのは、そのための一つの方法なのです。地域通貨は、お金を「ローカル」や「コミュニティ」という面で見ることにつながります。資本主義や資本というものが「グロ―バル」であるので、それに対抗する貨幣を考えるということになると、どうしてもローカルやコミュニティという性質を帯びるのです。

 

さらに、僕は「ルーツ」つまり「根っこ」というものを考えています。現状、人間が人間である限り、住む場所だったり、食べる場所だったり、人は特定の生活圏を持ってしまう。オンライン・ゲームをずっとやっていると、自分が一体どこに存在しているのかすらわからなくなるでしょうが、プレーヤーは食べたり飲んだりしないと生きていけない。Facebook とかをやっていても、そのスマホをいじっている本体がどこには根差しています。人間というものは、どこでどう生きようが、特定のローカリティという「根っこ」から免れないものだということです。やっぱり生きてるって言うことはそこに「ルーツ」がある、どこかに生きてるということなので、どこかにある「ルーツ」をやっぱり考えないといけないと思っています。結局、「ルーツ」はローカルなコミュニティという形をとる。人間が完全に電脳的なアンドロイドに転換してしまったら、また話は別なのでしょうが、今のところそれはない。

たとえば、「北海道」は地図で見ることができるジオグラフィック(地理的)な場所であり、都道府県や道州制における行政区域を意味しています。けれど、それと同時に、「夏は過ごしやすいが、冬の寒さが厳しく、雪はパウダースノーで、ウィンタースポーツに最適、魚介類がおいしくて観光客に人気」といった多くの意味の集合としてトポロジカル(位相的)な空間でもある。北海道出身者はどこにいても北海道に思いをはせるかもしれないし、外国人観光客は一時的に北海道に滞在して北海道の愛好者になるかもしれない。しかし、出身者と愛好者は北海道のあれこれについて話をする、つまりトポロジカルな空間としての北海道に住める。でも、人間誰でも究極的にはどこかジオグラフィックな場所に住んでいて、その時点でそこに「ルーツ」があるということです。

ローカル・コミュニティという「ルーツ」があって、それを基盤にして初めて何らかのハイパーなもの、さまざまなバーチャル・コミュニティが乗っかっているというイメージです。根本的なルーツがありさえすれば、その上には何が乗っかってもいいと思います。しかし、今の仮想通貨とかビットコインは、そういうルーツに関わる事柄をまったく忘却して、その上のバーチャルなところばかりやっている感じですよね。どこにも根差していないと思うんですよ。だから、そういうものは本当に人間の生活ということを捉えられるかどうか分からない。果たして、経済とか産業とか、技術の基盤にある工業さえも捉えられるかどうかも分かりません。あくまで現段階では、非常に上の世界でのみ動いていることなのです。

しかし、人間のローカル・コミュニティにおける生活は確実に続いていき、第一次、第二次産業、つまり、農林水産業や工業を必要とするでしょう。なので、仮想通貨と地域通貨が融合した仮想地域通貨とでも言うべきもの、既に登場している飛騨信用組合「さるぼぼコイン」や近鉄「ハルカスコイン」みたいなものがこれからはもっと必要になってくると思います。今企業が関心を持っているのにも、近鉄コインのような、地域を連結させて流通圏を作り出すような仮想通貨ですね。

 

 

 

 

グッドマネーラボ

2018年4月に「デジタルコミュニティ通貨コンソーシアム・ラボラトリー」というものを専修大学に作ろうとしています。ちょっと名前が長すぎるので(笑)、通称「グッドマネー・ラボ」にしようと思っていますが。なんで“グッドマネー=良貨”かと言えば、「悪貨が良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」から取ってきています。。

グレシャムの法則とは、例えば、2種類の金貨があったとして、Aは金の含有量が80%、Bは金の含有量が10%です。そうすると、みんなが使う金貨はどちらでしょうか?Bの10%の方ですよね。金を多く含むAは自分で持っていたい。つまり、質の良いものと悪いものを出したら、質の悪いものだけが流通するんですね。これが悪貨が良貨を駆逐している状態です。しかし、これは、悪貨も良貨も同じ価値単位の下で同じ量、たとえば1ポンドであり、そういうものとして流通すると考えられているために発生する法則です。

そこで、違う単位を導入する、例えば、「ポンド」と「偽ポンド」と単位も変えて質的に違うものと認識できるようにしてみましょう。そうすれば、1偽ポンド=0.3ポンドといった風に、悪貨が良貨から質的に区別され、量的にも別の単位でより安く表現されるはずです。そのように相場を変動させれば、グレシャムの法則は成り立たなくなり、逆に、悪貨が使われなくなって良貨だけが使われるようになる。つまり、「良貨が悪貨を駆逐する」選銭(Choice of Money)が成立するというのが、ハイエクの議論です。

今の仮想通貨は円やドルとの間で変動相場を採用していますから、この選銭が当てはまるわけです。悪貨が駆逐され、良貨が生き残るはずである、と。その点はいいのですが、今度は別の問題が出てきています。ビットコインはアマゾンやビックカメラで使えるのですが、価格変動が激しすぎるので、だれもほとんど使わない。仮想通貨は、ドルや円にペッグされた仮想通貨を除けば、ボラティリティ(変動性)が高すぎるのです。そうなると、安く買って高く売ることで、売買差益を目指す投機の対象でしかなくなっています。

仮想通貨は中央銀行が発行管理する法定通貨とは異なる通貨になることで、より分散的で自由な世界を実現するものと思われてきましたが、だんだんそう見られなくなっていきました。地域通貨は、資本主義を是正しようという特性を持っていたのに、仮想通貨はまったくそうではなくなりました。むしろバブルを生み出す根源であり、資本主義の権化のような存在になってしまったのです。根本的な問題は、ビットコインのための消費財・投資財市場が形成されておらず、実取引にほとんど根差していないということにあります。それが貨幣であるならば、何らかのルーツに根差す必要があります。僕は、それがローカル・コミュニティ、人間が住んでいる集まりとしてのコミュニティだと思っています。もっとそうしたコミュニティに着目する必要があるのではないかな。日本円も「日本」という広いローカル・コミュニティに根差していると見るべきではないか、と。だからデジタルだけではだめ、コミュニティを付けて、デジタル・コミュニティ通貨。そこで、グッドマネー・ラボも、仮想通貨をもっとましな通貨にする方向をめざして、仮想地域通貨のように、コミュニティに根付いたデジタル地域通貨を社会に広めていけないか、と考えているのです。

なんでコンソーシアムって名付けているかというと、大学研究者がアカデミックな研究を行うタイプの研究所じゃないぞ、という意味です。今までの大学の研究は、客観的な現実や既存の制度やシステムを調査研究して、それを理論化、体系化して論文や本にするというスタンスだった。ところが、ここでいうデジタル・コミュニティ通貨っていうのは既にあるものではなくて、これから制度として作り出さないといけないものです。我々研究者もそれを傍観者として外部から客観的に観察して、普遍的法則を見つけ出して、理論にすればいいというわけにはいかないのです。むしろ、研究者も現実に介入するアクション・リサーチの方法をとることになるのです。

研究者は、実践者とともに新しい制度設計や制度づくりに関わり、その効果を調査し、それを参加者へフィードバックする。すると、参加者はそれを見て自省する機会を持つので、認識の変化と行動の変化が生まれ、仮想地域通貨の効果自体が変化していくことになるるでしょう。効果も常に客観的に計量できるものだけではありません。参加者にアンケートを行い、どの程度満足を感じているかといった、主観的な生活満足度(Life Satisfaction)も調査します。こうした主観的、客観的な調査に基づいて、通貨の使い勝手や効果を評価しないといけないのです。

つまり、今回は客観的な学問をやるだけではすまないぞ、と思っているんです。これは外部観測じゃなく、内部観測になるわけです。そのため、学問研究と制度設計・政策が相互に影響を与え合うことになるでしょう。ここには、いろいろなリスクもありますが、今までにない魅力もあるのです。企業、行政、学生や市民そして学者、いわば産学官民すべてプレーヤーとして入ってこないとできないようなラボラトリーすなわち研究所であり実験所なのです。皆を巻き込んで、それを今からやっていきたいと考えています。

 

 

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