『幸福の研究』


邦題は『幸福の研究』なのですが、内容的には原題のままの『The Politics of Happiness』の方が正しいように思います。社会システム、行政、思想を「幸福」の観点から捉えなおした良書です。

 

 

 

とても刺激的な本だったが納得できないところが多くありました。ちょこちょこ混ぜつつ書いていきます。

 

 

幸福は政府じゃなくて個人で追求するもの

ベンジャミン・コンスタントは国家の適切な目標はただ一つ、自由だと主張しました。

官職にあるものは、ただ公正でありさえすればよい。幸福になる責任は我々が自分自身に対して負うものである

 

ちょっと話が逸れますが、国が保障すべきものはなんなのでしょう。日本の場合はたぶん、

  • 基本的人権
  • 国民主権
  • 戦争放棄

みたいなところじゃないかなーと思います。憲法が言ってるから。

 

じゃあ、そもそも基本的人権ってなんや!ってことになります。

Wikipediaの「人権」のページ

分かりやすい人権説明してくれてるサイト

 

Wikipediaに依れば、基本的人権が明示された感じの最初は「自由権」らしいです。18世紀に出せれた人権宣言時の最狭義の人権。

なるほどなるほど。歴史的に、大事だ!と言われることのベースには自由があって(もちろんその前には安全や食の確保などがあったと思いますが。)、国家が規定されているのであれば、ベンジャミンさんが言われることは最もな気もします。

 

ただ、なんで自由なんだ?普通に僕が勉強不足なだけな気はするけれど、自由を確保するのは幸福になるためじゃないのか?最初に自然権を「自由」ベースで設定したのがまずおかしい気がしました。

 

この辺は自由についてやっぱもっと勉強しなければならない…誰か分かる人教えて…涙

 

 

ただ、明らかなことは国際社会では、「幸福」の追求だけでは、必要な事柄を網羅することは出来ず良くないことだとされています。なぜダメなのかは後述します。
その反面、幸福研究によって、実証的に政策を決定することが容易になってきました。これは政策決定に関して大きな貢献だと著者は述べます。

 

 

 

人間は不幸に適応してしまう

例えば冤罪で刑務所に入れられた本来は無実の男性がいたとします。冤罪で捕まりました。懲役20年としましょう。

冤罪はよくないですね。簡単にさらっと言えますけど、本当にマジでよくない。絶対冤罪とかされたくない。

ただ、この無実の男性は10年くらいたつと刑務所の生活にもさすがに慣れてきました。15年くらいで独自の楽しみ方を見つけ始めました。18年目くらいで刑務所の中で悟りを開いて幸福になりました。むしろ刑務所に入る前より幸せだと感じています。

 

 

この場面をよくよく見ると、不思議なことが起こっています。

冤罪→アカン

無実の人→前より幸せ

 

こういうときって幸せだから冤罪でもまあOKなのでしょうか。もちろん冤罪はダメだと思うのですが、もう冤罪が起こってしまって20年たって無実の男性が超スッキリ幸福で出所した時って間違えた警察への処罰はどのようにすべきなのでしょうか。

アマルティア・センさんは「幸せでも倫理的に警察アカーン」って言ってはります。なぜなら人間は変えられない不幸には自分の価値観を変えにいって無理やり幸福だと思い込む、という特性があるからです。

ですが、果たして本当にアカンのでしょうか。なぜ主観的幸福度だけで測ってはいけないのか。

 

 

倫理的にというのもまた難しい問題です。

例えが代えて、倫理的にアカーン問題をちょっと考えてみたいと思います。

 

非正規雇用者、派遣の人がいたとします。今非正規の人が増えて問題になってますよね。収入が安定してないのが問題となっている理由の一つですが、非正規雇用者のAさんは「安定してないけどすぐ辞めれるし、自由だ!!!」と超ハッピーな感じで生きてるとします。

そこに国が、「安定してなくて倫理的にアカーン。。。Aさんの置かれている状況は危険すぎる。非正規雇用はしちゃいけないって法律を作ろう!」みたいなことを言ったとします。

 

これはどうなんでしょうか。Aさんは現在でも超ハッピーです。倫理的にアカーンっていうことでもしかしたら主観的幸福度が下がるかもしれません。

 

 

ということでやはり個人的な意見としては、基本的に中心に置く考え方は「主観的幸福度」でいいのではないかと思います。(それに持続可能性などは考慮する必要がありますが,,,)

そこで倫理の話を持ち出すよりも、冤罪だったりしたら長い間辛い思いをするので長期的に幸福度が低い状態ですし、派遣の話で言えば、将来的に幸福度が下がるから非正規はアカーンっていうロジックで考えると個人的には納得できます。

 

ここも、正義論、公正論、倫理などの解釈を深める必要がありそうです。…大変だあ

 

 

 

幸福度の追求だけで政策を決定できない理由

そもそも幸福度をもとに政策を決めること自体可能なのでしょうか。

本書で与えられていた回答は、NOです。

 

その理由としては以下の3つが挙げられます。

  1. 何がどう幸福度に作用しているかは完全には分からない
  2. 実証的な方法による解決になじまない
  3. 主観的幸福と客観的幸福の問題

 

1.は簡単に予想できますよね。

2.の実証的な方法による解決になじまないというのは、例えば、不法移民をそうするかといった問題です。不法移民(自国民じゃない人間)の幸福度は上げる必要があるのか?という問いが生まれます。幸福を挙げる対象は自国民だけ?それとも他国民も?

こういうことは事実うんぬんよりも私たちの価値観が重要になってきます。

 

3.の主観と客観の話は、タバコを吸いたい人がいたとして、それは主観的にはプラス、客観的にはマイナス。これも「主観的幸福が絶対大切だ」「長期的幸福が絶対大切だ」「まず健康は確実に確保しなければならない」みたいな価値観のぶつかり合いになります。

 

 

3点とも簡単に解決できる問題ではありません。これが「幸福」という視点だけで政策方針を決めることが出来ない理由でもあり、幸福で測っていいのかの前に、測れないところがあります。

 

 

そして最後のパラグラフは凄く意外な事実です。

 

なぜ格差を是正するのか?

驚くべきことに、経済格差が開こうが縮まろうが、そのこと自体は幸福度にそんなに関係がないらしいです。びっくり。

 

アメリカの富裕層は1970-2000年くらいで60%くらい所得を増やしたのですが、貧困層は10%くらいしか増やせませんでした。6倍も違うんです。

しかし、幸福度を計測してみると、格差が拡大したからといって幸福度の差も拡大するかと言ったらそうでもない。(※アメリカの場合なので、日本で測ったら違う結果がでるかもしれません)

 

 

所得格差の拡大が不幸感を高めないのであれば大規模な再分配を行う理由がかなり減ってしまうのではないでしょうか。

実際に貧困すぎて死ぬ、みたいな人たちはまだいるのでその人たちを救わなければならないというのはその通りですが、所得格差を小さくすることではなく、絶対貧困の層を支援するという目的であれば所得再分配を行わず、食べ物引換券を配ったりした方が効率的かもしれません。無駄使いする可能性がなくなるからです。

 

とすると、所得再分配はしなくていいのでしょうか。

 

著者はこう言っています。

所得再分配を擁護する論拠は説得力がないかもしれないが、より平等な政治的権利と機会の拡大を達成する改革についてはもっと強力に賛成する理由がある

 

ここで言ってるのは所得再分配をする意気込みは、ただ

「経済的な格差を縮めるんだ!」

というところではなくて、

「経済的な格差がある故の政治的な不利(お金持ちの方が選挙有利)や機会の不利(お金持ちの方が教育有利)をなくすんだ!」

というところにこそあるんですね。

 

 

普通に所得の格差が直接的に幸福度にリンクしていると思っていたので、この発想はありませんでした。直接的というより間接的にリンクしていますよ、という感じです。ビックリですね。いやでも、当たり前と言えば当たり前か。

 

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