『カール・ポランニーの経済学入門』


経済学と言っても独自の視点から経済を捉えたポランニーさん。端的に言うと、「市場だけじゃあきまへん」っていうのが主張。言ってはることは一貫していて分かりやすく(著者の若森さんがスゴイのかも)、めちゃ×100共感でした。

 

 

 

経済に埋め込まれた社会

日々生きている中で、市場的価値観が自分の頭を占めてしまっているのではないか、と思うときがあります。

どういうことかというと、

 

「ああ、、、こんなにボーっとしていたら勿体ない!時間の無駄だ!」

と考えてしまったり、

「皿洗いなんてしても自分のスキルにならないのに、時間の無駄じゃないのか」

とか考えてしまったり。

 

これは、今自分が使ってる時間がお金を得る為に有効かどうか、という視点で物事を考えてしまっているわけです。ちなみに僕はけっこうあります、こういう思考。我ながらダサイ。

最近問題になっている、大学の社会科学は金にならねえから価値がない!みたいなのもこれですね。

 

 

これをここでは市場的価値観と呼びました。(僕が勝手に命名)

 

 

突然ですが、社会は以下の3つで構成されてると言われることが多いです。

  1. 交換
  2. 互酬
  3. 再分配

 

あ??ってなると思うので言い換えます。

  1. 市場
  2. 共同体(家族とか)
  3. 国家

です。

 

 

いきなり本書のまとめ、つまりポランニーさんの主張のまとめを言うと、

市場、共同体、国家のバランスが良い状態、つまり、交換、互酬、再分配の動的な均衡状態が理想の社会である

ということです。

 

 

当然ですが、社会は市場だけではなく、共同体があり、国家があり、そして市場があり、それらが合わさって成り立っています。

しかしここ100年の間は市場のプレゼンスが急速に拡大し、僕らの価値観さえも市場に染まってしまっています。

 

ちょっと前までは(今もかもしれない)、「政府の規制をやめて自由市場じゃい!」という派閥が勢いを持っていました。政府が介入するとロクなことがねえ、と。手を加えなかったら競争とセリの原理が働いて、一番いい状態になりますよい、と。(雑に言うと、パレート最適といいます)

 

そして、政府の規制は剥がされ、出来るだけ自由な競争、市場の自由化がもたらされた結果、経済は発展し、たくさんの国が豊かになりました(?付ではあります)。それと同時に格差が拡大され、労働の阻害(あんま楽しくないのに何でこんなに働いてんだろ現象のこと)が起こりました。

 

この市場の自由化を良しと取るか、悪しととるかは経済学者の立場に依りますが、ポランニーさんは「くっそ悪しやわ、F××k」と取りました

 

ポランニーさんはこの、社会の一部であるはずの市場(社会に埋め込まれた経済)が逆転し、市場の中に社会がある(経済に埋め込まれた社会)といった前提で他の経済学者が経済を語ることを批判します。

 

そう批判する論拠はいくつかあるのですが、分かりやすいのは以下の通りです。

 

商品擬制に基づいた労働市場、土地市場、貨幣市場を需給調節だけで維持するのは困難であって、劣等処遇の原則の基づく社会政策や通貨安定のための国家介入を絶えず必要とした

 

 

 

市場の原理で自動調整されるよー、といった暗黙の了解は全然正しくなく、事実を見ると国家が介入しないとそもそも市場なんて成り立たない、という主張です。

 

 

ちなみに、市場の自由化が叫ばれていたその時代には、アリストテレスやポランニーの主張は強く批判されました。「自由な市場が経済を良くして世界を良くするんだから、足引っ張んじゃねーよ!」みたいな感じです。

確かに、経済は発展し、素晴らしい科学技術と経済水準の発展を遂げたこと自体は本当に素晴らしいのですが、格差拡大などの問題も同時に発生しました。

 

そういった数々の問題を自由な市場では解決しきれていない今、ポランニーやアリストテレスの主張が光を放つわけです。

アリストテレスの古代ギリシャでは、交換・互酬・再分配のうち、中心に合ったのは「互酬」でした。経済(Economy)の語源が「共同体(オイコス)」+「秩序(ノモス)」から来ていることからも分かります。

当時、市場は互酬を支えるために貢献するものという位置づけでした。

 

更に面白いのが、市場や貨幣の制度を創始したギリシャ人が、市場が独特の誘惑を伴って悪用されやすいことを理解し、市場を注意深く操ろうとしていました。市民の公共奉仕に負って文化的偉業が成し遂げられたのです。

 

 

そこからポランニーは人間を市場から守る必要性が避けがたく存在してきたということを見出しました。

 

 

 

自由

他の記事にも度々出てくる自由。「自由」は本当に深くて、深すぎて、たまに嫌になるほど深い(笑)

今回も新しい、けれども重要な「自由」観が出てきます。

 

自由であるというのは、典型的な市民のイデオロギーに置けるように義務や責任から自由だという事ではなく、義務と責任を担うことによって自由だという事である。それは〔中略〕免責の自由ではなく自己負担の自由であり、したがって、そもそも社会からの解放の形態ではなく社会的に結びついていることの基本形態であり、他者との連帯が停止する地点ではなく、社会的存在の逃れられない責任をわが身に引き受ける地点なのである。

 

 

義務と責任から自由ではなく、義務と責任を担うことによって自由。

深え。けど確かに。僕が一番好きなマンガ『バガボンド』でも似たようなことを言っています。

 

 

普通は、「義務」とか聞いたら自由と対極のところにあるかと思ってしまいますが、そういう単純な概念ではないのですね。

 

 

市場経済に埋没している人々は、各人が入手する「すべてのものが、最も内奥の自我に至るまで、他者に由来し、他者に負うもの、かりているもの」である、という人間相互の社会的関連を洞察する機会が奪われていて、社会の認識を欠いている。それゆえ、自分の選択や行動が他者に及ぼす結果に対して責任を取ることが出来ない市場経済では、責任と義務を担うことを通しての自由が制限されているのである。

 

 

他者に由来し、他者に負うもの、借りているもの。ここを解釈すると、例えば僕らは土地代を地主さんに払います。僕が住んでる土地は地主さんから借りているものだからです。ですが、この土地は地主さんのものでしょうか。地主さんは地主さんの親から譲り受けたもので、その親は更にその親、その親の親、親、、、、と続くと一番初めは誰のものでもなかったはずです。地球。そこに最初に旗を立てた人がいて最初に自分のものと言い張った。それだけ。

故に他者に由来し、借りている

 

 

自分の選択や行動が他者に及ぼす結果に対して責任を取ることが出来ない。ここも解釈します。こっちは難しい。

ポランニーさんは、社会を「複雑な社会」として認識しています。今日コンビニのクッキーが値上がりしたのは、僕が半年前に卵をゆでた時に、出た水蒸気が気流の変化を生み、中東で多くの雨を降らせ、イギリスでの雨量が減り、その結果小麦の生育が悪く、収穫が落ち込み、結果小麦の価格が上昇し、そのあおりを受けてクッキーの値段が高騰したのかも知れません。(余談ですが、Mr.Nobodyにも同じようなシーンが描かれています)

 

協業化が進行した社会では、自分の行動が引き起こす影響を誰も予測、認知することが出来ません。おそらく僕たちは児童労働をさせて作ったチョコレートを格安で食べているのだろうし、違法な労働をさせて作った服を着ているのでしょう。でもそこに罪悪感がないのは、知らないからです。

もっと言えば、見てないからです。それだけ。

 

見てないし、知らないから責任はないと思う。でも実際には知らず知らずに悪の片棒を担いでいるわけです。

ここにおいて、「責任を取ることが出来ない」。責任を取る自由が奪われているというのです。

 

 

では、どうやって完全な自由を実現するのか。どのような社会制度なら完全な自由が実現できるのか。教えてポランニーさん。ということになります。

 

 

そしてポランニーさんは答えます。

 

人間は完全な自由や共同体を現実の社会で実現することが出来ない

 

 

ポランニーさんは現実主義者であり、完全な自由は実現できないとします。出来ないけれども、それを目指して不断の改良を続けることが必要だと。だからこそ市場、共同体、国家のバランスが良い状態、つまり、交換、互酬、再分配の動的な均衡状態が理想の社会であるとします。

 

 

このような良き社会、あるいは社会主義には、完成された不動の到達点など存在しない。絶えざる「努力の継続」によってのみ、それに近づくことが出来るのである。

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