インターンで毎日泣きながら辿り着いた真実


 

春休みに海外インターンに2つ参加させて頂いた
で、その2つのインターンが最高すぎたので、どちらも紹介したい
今回は時系列順で変な名前の方のインターンを紹介させてもらいやす

 

 

これ。変な名前のやつ。まずPV見てください
バックミュージックで緊張感煽ってきて皆勢いで申し込んでしまうであろうPV

 

これを見た学生の感想は100人いたら100人ともこうだ。

「お、おお、、、なんか分からんけど気迫やば、、、なんか分からんけどぉ、、、、やばいい、、、分からんけどぉ、、、」

 

普通アホな学生たちはこのPVをみた時点で、バックミュージックが緊迫感を演出している時点でやばいやばいやばい焦る焦る焦る何か追い詰められている気がするうぐあああああ焦るううういいいい、と気が付けば申し込みボタンを押してるだろう。

僕はそんなに馬鹿じゃない。こんなバックミュージックで純粋無垢な二十歳そこらの学生を申し込みフォームへ誘おうなどと、この導線に屈してなるものか、いくら海外インターン情報サイトで目を合わせようと、いくらフェイスブックでステルスマーケティングしてこようと、断じて屈さん!屈さんぞ!!!俺は!!!!!!と息巻いていた

 

 

 

 

 

数日後、スタッフさんに個人説明会を開いてもらった

 

 

 

 

 

 

 

 

武者修行プログラムとは

説明が難しいので、URLを貼っとく

http://mushashugyo.jp/

 

気になる人はHP見てみてください

気にならない人は鉄道愛好会みたいなものだと思っておいてもらったら大丈夫(違う)

 

 

真実:体と脳には思い込みがへばり付いてる

 

人間は頭がいいのか悪いのか、色々”学ぶ”。出来なかったことも失敗を重ねるうちに色々学んで出来るようになる。そして出来る状態が普通で当たり前になる

最初は補助輪なしで自転車に乗るなんて「無理無理できっこない!!!別に二輪で進む必要ない!!!」と、不可能に思ってたけど、乗れることが当たり前になった今ではいちいち自転車に乗れて「っしゃ!!!!!きたああああ!!!!乗れたあああ!!!」と喜びはしない。もう乗れることは当然なのだ

 

 

それと同じように色々なことが自分にとって当たり前になってる

その”当たり前”の中には「ほんとにそれでいいの?」と思うような当たり前も多数存在するのだけれど、全然気づいていなかった。それを今回のインターンの中でいくつも見つけることが出来た

 

例えば、

 

論理的に考える人は頭がよく、正しいように見える

脳がそう錯覚する

他人(ひと)を説得するためには論理が必要だし言い負かすのにも論理が必要だ。

例えば、サッカー部の練習内容を決めるミーティングで「なんとなくそう思ったから、リフティングの練習するべきだ!!!!なんとなくそう思ったんだ!!!!」と言うのと、「僕たちのチームは基礎体力的なところは県下一なのに、足先のテクニックで強豪校に負けている。その差を埋めるためにじっくりまずリフティングの練習で基礎の基礎から見直そう。」っていうのでは何か納得感が違う

 

そういう過去の経験からロジックで考えられたものが優れているという思い込みがあった。「なんとなくそう思ったんだ!!」よりも「〇〇だからこうすべき」って方が優れているという思い込み

確かに論理的に考えることは大切だ

ただ、論理的でないことを間違ったものとして思い込むのは良くない

 

使いどころの問題だと思うのだ

実は何かを発案するときとか1から作りだそうとするときは「なんか直感だけどこうじゃね?」というのは馬鹿には出来ない

「消費者は以前からこういう購買活動をしていて、こういう特徴を持っている、だから次はこういう商品を作ったら売れる」ていうのと「なんかこういう商品作ったら売れる気がする」のも同等な1アイデア

やってみるまで結果は分からない、やってみるまでどちらもただの一つのアイデアである

 

ここで論理的でないものを削ぎ落してしまうと大切なものまで削ぎ落してしまいやすい。大切なものとは

 

 

それを”やってみたい”、なんか”ワクワクする”

といった感情たちで効率がいいからとか確率が高いとか、大切な自分たちの感情が置き去りになっている。感情が置き去りになったアイデアや商品は弱いし、逆にワクワクから生み出されたアイデアや商品はものすごい爆発力がある

 

それを論理的なものが優れているという思い込みで見逃しがちになっている

思い付きで生まれた意見や思いを大事にする。その後に論理で磨いていく。両方が大事で使い方が大事なのだと思った

 

 

ある程度のところを目標設定にする

大口叩いて失敗したらダサイ。それは生きてく中で皆自然と学んでく

「今度の大会で絶対優勝する!!!」って言って1回戦敗退だったらダサイ

「二重跳び俺40回は飛ぶで!!!」って言って一回目で引っかかったらダサイ

「僕らが今この形で生きているのは全部ダーウィンの進化論で証明できるよ?そんなことも知らないの?」って言って「進化論って実は間違いだらけらしいよ。そんなことも知らないの?」って言われるとダサイ

 

断言して失敗するとダサいんだ。それを今までの長い時間をかけて学んできた

 

人の目をどうしても気にしてしまう僕は、ダサくなるのは嫌だとばかりに

「今度の大会では、まあ2回戦くらいまではいくわ、はは、、」って言うようになった

「二重跳びって案外失敗しやすいよなあ、はは、ま、とりあえずやってみるわ」って言うようになった

「ダーウィンっていう人が進化論っての唱えたらしいんやけどさ、なんかそれ今の話で使える気もするね、どう思う?」って言うようになった

 

 

それと同じで本気を出して失敗することがダサイと学んだ僕は本気を出さなくなり、本気を出さなくてもクリアできる課題を設定しそれをクリアして一安心するようになった

それだけに飽き足らず、クリアできそうなハードルしか設定しない自分に気づいていながらも、その中途半端な自分のクソダサさに耐えられる精神性もなく、その”クリアできそうなハードル”を”精一杯背伸びして設定したハードル”と思い込んだ

 

そして中途半端に成功し、中途半端に笑い、中途半端に満足できない自分が完成したわけだけれど、インターンの中で「本気ってダサい」っていう価値観から大きな価値観の変化があった

「本気ってダサい」→「本気って実はダサくない…?」→「本気ってダサくない!」→「本気ってカッコいい」→「本気じゃないってダサい」

 

 

何があってこういう変化があったとかじゃないけど、周りの人たちを見ていてそう思えたのでこれがすごいデカかった

 

やっぱりどう考えても、本気にで何かをやろうとするのはカッコいい

でも、どうせ無理、俺には無理、失敗したらダサイ、っていう思い込みから逃れられず自分を言いくるめてしまいがち

 

 

無意味に他人に優しくしていい

 

競争社会で皆育ってる

スポーツだったら自分で努力して練習して、試合に勝つ。自分が勝てば相手は負ける。勝負だからそんなこと当たり前。勝ってなんぼ

入試だったら自分で努力して勉強して、入試で勝つ。自分が受かれば相手は落ちる。当たり前だ勝負なんだから。勉強したもん勝ち

ビジネスだったら自分で努力してサービス磨いて、売りまくる。自分のが売れれば競合のが売れなくなる。競争なんだから仕方ない

 

 

椅子取りゲームで椅子を譲れば自分が罰ゲーム。食卓で先にご飯を譲れば残ってるのはサブメニューだけで肉料理は先に食われてる。人助けするNPOの人は自分が食えなくなっていつしか自分が助けられる側に。

 

ああ、なるほど。自己責任なのか。ある程度までは自分で勝ち取る義務があるのか

長ーい時間をかけて、そう無意識に思い込んだ。その結果全ての矢印は自分に向いてる。自分が楽しいから、自分が嬉しいからと、一見他人の為に見えることでもそれをしてる”自分”

 

 

のだけれど、何か違うってことに気づいた

”他人の為”と”自分の為”っていう気持ちは共存出来る

もうやる気が出ないってときでも「これしたらちょっとあの人が喜んでくれるかな」って考えたら不思議とやる気が出る

もうアイデアが出ないってときでも「どうやったらあの人が喜んでくれるかな」って考えたらあら不思議、アイデアが出る

 

 

ビジネスとか全て、「うまくやれたら、あの人を喜ばせられる」ではなくて「あの人を喜ばせたいと考えれたら、うまくいく」

こういう思考になるとワクワクしてくる、そしてうまくいく

 

 

 

まとめ

自分って中途半端だな、とちょっとでも思う人にオススメだよ!

オススメしすぎて回し者に思われそうだけど回し者じゃないよ!

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