『街場の共同体論』


内田さんの本は今こそ読むべき本だと思います。忘れてしまっている当たり前だけど大事なことが丁寧にわかりやすく描かれています。

 

 

 

 

自己利益思考

新古典派の経済学では、実際に活動する人は「個人」であると考えられています。個人が自分の効用、つまり利益を最大化するように活動しているとされます。

 

この市場的な人々の振る舞いが、市場外の至る所で散見されると著者は指摘します。

 

例えば教育の現場を想像してみましょう。

 

「この道徳の授業を受けたとして、僕になんのメリットがあるんですか。就職に役立ったりするのでしょうか。」という思考が蔓延しています。

その延長線上に昨今話題になっている文系学部の縮小もあるのでしょう。

 

 

テスト勉強が捗らず、自分一人では問題の解説を理解できず、困っている友達がいたとします。何もややこしいことを考えず、困っている友達がいるのだから「教えてあげる」「一緒に考えてあげる」。それがあるべき姿、少なくとも、昔はそのような行動をとる人たちが多かったのではないでしょうか。

 

市場的な価値観に染まった人は、「ここでこの友達に教えて、競合が一人増えるのではないか」「この時間を自分の勉強にあてた方が入試に有利なのではないか」という思考が頭をよぎります。

 

こういうことは自分の損得で測るべき領域ではないのです。

 

しかし、今の教育はそういった自己利益の最大化を前提として、誰もがそれを疑っていない。その先にあるのはどう転んでも教育の破綻しかないと著者は述べます。

 

 

そこからは自分だけが教育資源を独占的に利用でき自分以外のものはできるだけ教育機会から疎外されることを願う人間しか生まれてきません

 

 

また、家族の在り方についても同じような視点から言及しています。

 

家族の全員が対等であり、それぞれ堂々と自己主張し、隠し事をせず、対話的に家族のありようを決めていくというようなことを理想の家族だという人がいますが、そんな家庭で子供が成長できるはずがない。それは商取引に準拠した家族だからです。

 

そのような家族では「これこれの利益をくれたら代わりに対価を払う」というような論理で物事を考えてしまうからです。

 

そういった「交換」の概念から抜け出さなければなりません。

 

 

自分さえ良ければそれでいいという自己利益だけを追求して周りを競争相手として排除していくような生き方をするより集団全体のパフォーマンスを底上げする方が自己利益を安定的に確保できるというごくごく当たり前の事実を思い出して欲しいんです

 

 

 

とりあえずやってみる思考

最近は「なぜそれをやらなきゃならないの?」ということがよく尋ねられます。

もちろん、そのすべてが悪いというわけではないと思います。効率よく学べたり、本質を見抜けたり。

しかし、「その理屈を求めてそれに納得しないと動かない」という最近の行動決定プロセスを少しだけ立ち止まって考えてみることにします。

 

今の人たちは自分がこれから行うであろう努力について始める前に値付けを要求する。そういうことができるのは、自分がこれから何をするか自分のすることにどういう意味があるか、どういう価値があるか、行動を始める前からもう分かっているそう思っているからです。でもこれは典型的に商取引的な発想なんです。

 

 

昔はとりあえず、先生や親父がやっていたことを見様見真似でやってみる。まず何も考えずにやってみる。

「俺の親父がこんだけ真剣に取り組んでること」に何か具体的な意味や何が得られるのかを考えはしませんでした。

 

しかし、商取引の原理で言えば、「これを買うと何かいいことあります?」「今はわかりません。後でわかることがあります。」といった対話で売買は成立しません。

 

 

現代を生きる僕は確かに、始める前に、「目的」「得られるもの」「会得できるまでのステップ」「それを得るとどんないいことがあるか」などを瞬時に考えます。それが自然。

しかし、確かに、その考え方は通用しない世界というのはあります。

 

 

自分のレベルや視座が低すぎることで、目の前の事象の本質、価値を理解することができないことは往々にあります。

猫に小判を与えても猫は全くその価値を理解することはできません。それと同じです。

 

師範代になるまで修行を重ねた人と、まだ修行を始めてもいない人では、実際的に、見える世界が違い、感じられる感情に違いがあると思います。商業的な物事の考え方だけでは、その「振り返ってみて初めて、ああ!!!そういうことだったのか!!!」という経験が出来なくなってしまいます。

そして現代では、そういう機会が失われる方向に進んでいっている。

 

 

そこを少し立ち止まって、この自分の考え方は市場に染まりすぎていないか、考えてみたいですね。

 

弟子は何をしても結局は師の掌から出ることができないわけですから、肩肘張って「俺が俺が」と突っ張る必要がない、自己宣伝する必要もないし、自分の力量を売り立てる必要もない。肩の力を抜いて、学び、工夫し、失敗することができる。
師に仕えるということを多くの人は不自由だと思い込んでいるようですけれど違いますよ。師に仕えることで弟子は途方もなく自由になるんです

 

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