『正義のアイデア』


”Capability”という概念を提唱し、ノーベル経済学賞を受賞したセンさんの本で、ただただ分厚く、深みに深い。もはや経済学者というより哲学者です。


 

 

Capabilityの重要性と限界

時代と共に人間の権利は拡張されてきたし、価値観は変容し続けてきました。

 

例えば、「環境を保護しよう!」という思想を見てみます。

だいぶ昔:(直感的に)「環境を保護しよう!」

ちょい昔:(人類が生きていく為に)「環境を保護しよう!」

今:(人類のCapabilityの為に)「環境を保護しよう!」

 

ここでいうCapabilityを分解してみると、「生きていくため」+「”生物を助ける”という選択の自由のため」みたいな感じです。

同じ「環境を保護しよう!」でも背後にある思想は、どんどん高度に、複雑になってきています。

 

Capabilityをちゃんと定義するのであれば、

「個人が”価値を認める理由のある事”を行う手段の自由」

って感じです。

 

この概念が重要なのは、今までは「結果(主に効用や基本財)」で平等やら幸福やらを定義づけていたのに対して、センさんは”どれだけ選択肢があるか”みたいな「手段」にも着目しやしょうぜ、と言ったからです。

 

例えば、「超脅されながら働きまくって大金を手に入れた」のと「ウキウキ楽しく働きまくって大金を手に入れた」のでは「結果」は同じですが、「手段」は全然違います。

 

 

ただ、本書の中で、センさんは「別にCapabilityの概念はパーフェクトじゃ全然ないから勘違いすんなよ!」って言ってます。自分で概念出してノーベル賞とって「でも完璧じゃないからもっと考えていこう」って自分で適切に批判するセンさんイケメン過ぎ。これはモテる。

 

例えば極論ですが、自発的に断食をしている人がいるとしましょう。ただ、その人はストイックすぎて限界を超えに超えて食を断じた為、死にました。

その場合、好きで自由にやっていることなのでCapability的にはOKです。ただ、客観的に「死んでしまっていいのか!?止めなくていいのか!?」ということになります。

「やりたいこと」と「福祉」が一致しないケースがあるわけですね。

 

もう一つ違う例を出します。

奴隷がいたとします。「従属する主をAさん,Bさん,Cさんの中から選んでいいよ」と言われたとして、奴隷の方は「わーい、選べるのか!なんか得した気分♪」と主を選びました。奴隷の方は「なぜ自分は奴隷なのか?」という問いは持っておらず、当たり前のこととして受け入れています。

Capabilityは「個人が”価値を認める理由のある事”を行う手段の自由」なので、Capability的にはOKかもしれません。ただ、「奴隷である」という事実は事実です。「Capabilityが満たされていたら奴隷であっていいのか、いやよくねえだろ」というのが世の中の価値観だと思います。

 

自由という概念の中に様々な特徴、例えばCapability、従属しないこと、干渉を受けないこと、などを取り込んだとしても何も困惑することはない

 

 

 

”なぜ幸福になることが大事か?”という問い

幸福になりたい、というのはだいたい皆思っていると思います。最近は幸福の研究の数が急速に増えてきていたりと、幸福は大変注目されています。

 

ただ、そこでいつも問われていることは「どう幸福になるか」ということです。

研究が進めばいずれ「どう幸福になるか」という問いには答えが出るでしょう。

 

ただ、「なぜ幸福になることが重要か」という問いに答えを出せるかはわかりません。

今までの学者は「いや普通に幸福になるべきだろ」という事しか言っていません。皆が求めるから重要、そういうもんでしょ、という感じ。

 

 

僕も幸福感が超大事だと思っています。働くのも幸福になるため、友達と話すのも幸福になるため、勉強するのも幸福になるため。

 

幸福とは何か?というのは難しいといなので、ここでは一旦主観的に感じる短期的な幸せ感としておきましょう。

 

 

でも幸福とは厄介なものです。

それは人間の次の特性があるからです。

 

 

貧困の苦痛から解放されるために、何かを諦めることによって幸福を感じる

 

 

例えば、医療施設のないコミュニティで育った人は避けられる病気もそれを正常と見なす傾向があるとされています。その人はまあ、大丈夫だと思ってるから幸福は幸福なんですね。でも死ぬかも。

 

ここで出る難しい問いは、そういう状態の時に本当に幸福が大事か?です。

 

幸福だったら死んでもいいのか?本人はそれでいいと思っているのに他人が介入していいのか?そういう問いがあるときに幸福を求める意味とは?なぜ幸福になることが大事なのか?

 

まず「なぜ幸福が重要か?」という問いにこたえるのが難しすぎる。しかし、それは根本の問いなので概念、政策、法を考える時にこの問いを考えることに意味はあると思います。

誰か答えがある人は是非教えてほしいです。よろしくお願いします。この問いに答えたい。

 

 

「多様性追求」のマナー

多様性、Diversityが重要だ!Diversity社会を目指せ!と最近叫ばれてますね。

女性の社会進出、外国人の受け入れ、流動性のある社会。

 

 

ここから本書を読んで僕が勝手に考えた「こういうルールの下で多様性を追求すれば上手くいくのでは」というのを記そうと思います。

 

 

まず、「車持ってて家持ってて友達多い人が正解ね!」みたいな正解が一つしかない社会は多様性からは対局にあります。

まず押し付けられる指標ではなく、①主観的な自由を認めましょう

しかし、本書で主観的幸福だけではいいのか!?ということが確認されました。

ので、②客観的「厚生」を担保しましょう。「厚生」とは最低限度の生活を送れているか、安全かみたいなところです。

 

そして難しいのは本書でも出てきた①主観的な自由と②客観的「厚生」は時に一致しないということです。リスクを負っても未知の世界を見たい冒険家は①は満たしますが、②は満たせません。「その時に死にたきゃ死ねば?」と完全に①に任せて冷めた目で見つめるのか、「絶対行っちゃダメ!!!死んじゃダメ!!!」と②に従ってヒステリックに止めるのか。

たぶんどちらでもなさそうです。たぶん答えは①と②の中間にある。ということはどうやって①と②のバランスを決めるかということが論点になります。

 

 

 

自分は他人の意見や外界の情報を摂取して集積させることで出来上がっています。今現在も他人のアイデアや話や意見を吸収して自分のアイデア、話、意見が出来上がっていっています。

 

と考えると、自分と他人を100%切り離して考えることは不可能で、自分に影響を与える他人も含めて自分と考えることが出来ます。

そういった前提の下、僕は次の提案をします。

 

①主観的な自由と②客観的な厚生のどちらをどれくらい重要視するかは、世の中で「私」がどれくらい”Individual”と見なされているか、どれくらい”Dividual”と見なされているかに依ればいいと思います。

僕の感覚では、今現在の日本で言えば、90%”Individual”観、10%”Dividual”観くらいの比率で成り立っている気がします。(完全に僕の感覚ですが…。)この場合は、90%①主観的な自由を優先し、10%は②の厚生を考慮する必要がある、と決めます。

 

どうやって世論が”individual”観によっているか”Dividual”観によっているかみたいなを測るのか?みたいな問題は山積みですが、これでバランスを測ると、世論との整合性が取れ、「自由と厚生どちらを優先すべきか問題」に一定の解を出せるかと思いました。

 

 

 

さて、①②のバランスの話が長くなりましたが、もう一つ考えなければならないことが在ります。それは「多様性の為だったら何をしてもいいのか」問題です。

 

例えば、多様性を担保しよう!ということで、山を燃やすのが好きな人を認めてしまうと確かに多様性は高まりますが、環境破壊が起こって困ってしまいます…

 

そこで最小限の制約を加えることが「多様性追求のマナー」です。

具体的には③地球の持続可能性の保護④他者の自由を侵略しないことです。

この制約の中で①②を爆発的に追求しましょう。

 

 

上記が僕が作った「多様性を考える時にまず使用すべき思考のフレームワーク」です。

これに沿って考えれば多様性の議論がすっきりする気がしました。何か改善点あればこれも教えてほしいです。よろしくお願いします。

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『正義のアイデア』」への2件のフィードバック

  1. のコメント:

    多様性について考えるときのフレームワークに対する意見では全くないけど、防災について考えるときも、似たようなこと考えなきゃいけんなぁと思っていた。例えば、津波に対する防災。みんながみんな、(生涯)教育とかによって地震が来たらすぐ逃げるようになれば、犠牲者は減る。(広い意味で、そして極めて単純に考えた場合社会全体の損失も減る。)でも、こういうおばあちゃんもいる。「逃げる必要はない、ずっとここで生きてきたし、この家が流されるときは私も一緒に流される」って。個人単位でみたら、それまで生きてきた過程が違うし、それによって思考も違うし、(選びたい)手段も違う。社会全体に関わる政策とかを有効なものにするには、そういった部分を、全体的に、具体的に、リアルに、知って、考えなくちゃならんのやろうなーと。
    この話の場合、①②③④の要素はどんなことになるんかなぁと考えつつ…コメントはここまでにしときます。笑

    • naoya2 のコメント:

      とても考えさせられる例ですね…
      僕が記事にした多様性追求のマナーに則って言えば、おばあちゃんは流されるしかないのではないか、と思います。
      自身は人為的なものでないのでこの場合③④は考えの対象になりません。

      ので、①主観②客観的幸福観について⑤世間の「私」がどれほど個人だと見なされているかでバランスを決めるだけです。

      そうすると、今は「個人=individual」の価値観が90:10くらいかと思うので(ここの正しい測り方誰か考えて欲しい)、おばあちゃんの主観が大切です。
      つまり流される他ありません。

      …これはあくまで僕の考えなのでもちろん、様々な捉え方があるとは思いますが、こんな感じかと思います

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