『暇と退屈の倫理学』


衝撃だけれども、逃れようのない問いを突き付けられます。

それは「人生は長い暇つぶしだ。」ということ。

次に来る時代に備えて、この問いを、幸福、人間、経済、、、etc。様々な角度から考えないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

なぜこんなにも働くのか?

昔、詩人で社会主義革命派に、ウィリアムモリスという人がいました。

彼は少し変わっていて、社会主義革命の最中にこんなことを考えていました。

 

「革命終わったら、世界が平和になって暇になるなぁ…暇んなったらやることないや…どうしよ…」

 

彼は解決すべき大きな社会問題がなくなった革命後の世界を想像し、喜ぶどころか、不幸になるのではないかと考えました。

なぜなら、「夢」や「使命」みたいなことに熱中できなくなってしまうからです。

 

 

生きるために、狂った社会を正すために朝から晩まで必死に死に物狂いで革命を起こす日々こそ狂っていますが、それは熱意に溢れています。

 

同じようなことを哲学者パスカルも言っています。決意して「熱意」を持つことが重要なのであると。そうでなければ人間というものは「退屈」に押しつぶされて不幸になってしまうと言うのです。

 

考えたことがあるでしょうか。人間は幸せになろうとして、社会の歪みを正します。人間は幸せになろうとして身を粉にして働きます。しかし、一転、「もう社会は完璧な状態だ。完璧だから別に君にしてもらうことは何もないよ。何をしててもいいよ」と言われたら言われたらで、「やりたいことがない…」という退屈の問題と、「なんで俺は存在しているんだ」という“ロマン”の二つの問題に苛まれます。

なんという皮肉。

 

 

これが起こるのは、欲望の対象と原因が一致していないことに起因するといいます。

 

例えばウサギを狩りに行こうとする人がいたとします。

その人の前に神様がいきなり現れて、

 

「ウサギを狩りにいくの?じゃ、ウサギあげるよ」

 

と言ってウサギをくれたとします。欲望の対象であるウサギを手に入れたわけです。しかし、何か物足りない感が残ります。

 

ウサギが簡単に手に入ったので、空いた時間を使って、訓練をすることにしました。今度開催される闘技場で優勝を夢見ているからです。

 

訓練していると、そこにまた神様が現れて

 

「あ、訓練してんの?いいよいいよ、最強にしてあげる。ついでに闘技で勝てるよう他の奴を超弱くしといたげるからっ」

 

と言ってムキムキの最強マンにしてくれました。目的は達成されました。しかし、より大きな問題が発生しました。「暇」で「退屈」なのです。

 

「ウサギ」と「力」を求めていたはずの男も、実は、「退屈な人生をつぶすための気晴らし」と「暇つぶし」を求めていたのです。

 

 

そして興味深いことに哲学者ラッセルはこう言い残しています。

退屈の反対派快楽ではなく興奮である。

 

 

興奮とは快楽と違い、ポジティブな刺激とネガティブな刺激の両義を含んでいます。

つまり、退屈をなくすためには、快楽であろうと苦痛であろうとそれを得ようとします。苦痛よりも退屈を人間は嫌うのです。

 

 

そこで一つの問いに答えが出ます。

この物質的水準がここまで高くなった日本で、なぜ僕らはこんなにも働くのか。楽しく働いている人ならとにかく、嫌々働いている人もいっぱいいます。ダウンシフトすればいいのに、嫌々長い時間働く。なぜなのか?

 

それは「暇」だからです。

 

 

暇だ。退屈だ。この無限の時間をつぶす何かないか、なんでもいい、何か…。

そこで資本主義社会とその世論が耳元で囁きます。

 

 

「“仕事”させてあげようか?“消費”させてあげようか?」

 

そして「仕事」「消費」という「型」に自らはまろうとし、僕らは働きます。

 

 

 

 

 

 

退屈の形式

本書で紹介されていたのを簡略化すると、退屈の形式は二つに大別することができます。

 

  1. 「働いているのは人生という暇を潰しているからだ」という文脈で、何らかの行動を選択して行う行動すべて
  2. 一般的に使う「あ~この授業退屈だわ~」みたいな意味の退屈

 

 

第一形式は、本質をついています。「人生は長い暇つぶし」。それはそうなのですね。生まれてきた意味なんかないし、宇宙レベルで見たら人の命なんてカスみたいなもんです。

 

でも、そんなことを言ったらなんか虚無感が訪れてきて、「も~なんか生きる気力湧かんわ…」状態に陥ってしまいます。

 

その対策として、「思い込む」もしくは「勘違いする」機能を人間は持っています。安倍首相が日本を良くしようとしているのも、ウサインボルトが速く走ろうとしているのも、藤井4段が連勝することも、宇宙レベルで見たらどうでもいい些細なことなのですが、「これは私にしかできない」「私がやりたいことなのだ」と思い込むことで、「退屈」の罠を脱します。

 

これを哲学者ハイデガーは、「決意」することで自由という人間の可能性の実現につながる、という言葉で表現しました。

 

 

 

しかし、ここでこの本の著者は、第二形式こそ人間の形式なのではないか、と提起します。それは、人間には認知限界があるからです。いつも刺激刺激刺激では脳への負荷が強すぎます。毎秒毎秒、周りの人間は信頼できる人か、自分が立っている地はいきなり避けたりしないか、みたいなことは人間考えてられないわけです。

その結果、人間は物事を単純化して処理しています。

単純化し、環境に「適応」することで生きていけます。

 

「適応」とは、平たく言えば、「慣れ」です。「慣れ」がもたらすのは「退屈」です。

 

 

人間が人間として生きている限りは、変化に適応して安定した心置ける場所に身を置き、退屈を受け入れるのが<人間である>こと。

たまに、イーロンマスクのような起業家は、刺激刺激、環境の変化の常時連続だと思いますが、そのような第一形式の破り方(ハイデガー風に言えば「決意」すること)は、<動物になること>です。

 

 

 

最後に導き出される結論

僕たちは、第二形式<人間であること>、つまり、「日々の退屈」を基本的には生きよう。そして「日々の退屈」を送るうえで、それを楽しむ術を学ぼう。
世界には思考を強いるものや出来ごとであふれています(世界の貧困問題や、芸術など)。<人間である>「日々の退屈」を生き、好きな時に、自分の思考をあえて思考を強いる「型」にはめることができること(貧困問題に使命感を持って向き合ってもいい、芸術の後ろにある背景知識等をたしなむ等の「消費」ではなく「浪費」を行ってもいい)が、退屈を楽しむということです。

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