『半市場経済』


経済考える時は経済だけ考えてはいかんのや。本来の経済(オイコノミア=共同体の秩序)を考えなければ目的を見失う。つまり、経済は本来「人のつながり」の話。

 

 

 

 

未来と今

前回のブログで経済体系を考える上で「時間」が一つのキーワードになると言いました。その「時間」についてです。

 

将来の安定を求めて僕たちは貯金をします。将来何か欲しいものができるかもしれないから貯金をします。

 

しかし、ふと思うことがあります。

 

「なぜこんなにも働いているんだ?」

 

 

私たちは歳月の方を捕まえると、どうしてもこの瞬間を見失ってしまう。未来のために生きると、生きている現在を見失ってしまう 『幸福の追求』

 

自分でもよく分からないほど働いて、使う暇もないほど働いてお金を貯める。家族と過ごす時間は少なく、謎に良い食事を一人で取る。よく分からない。

 

しかし、現代の社会は安定していると思えません。将来の不確実性が高まれば高まるほど、人間は不安になり、貯蓄をしますし、お金を稼ぎたいと思います。ただ単純に将来が不安だからです。

しかしここにはジレンマがあります。不確実性に対応すればするほど、「現在の手段化」がエスカレートします。

 

今の為の今か、未来の為の今か。

このバランスは見えにくい。見えにくいから把握しにくい。どういうバランスがいいかを一概に言うことは出来ませんが、今そのバランスがおかしくなっていることが往々にしてあります。

もうすこし、未来の為ではなく、今のために今を使えないのか。そう著者は訴えます。

 

 

 

 

時間の近代化

今日本で起こっている問題の多くは、現代に近代のシステムがそのまま残っていることが起因していると僕は考えています。

 

日本の近代化は当時、とても優れていたと思います。単純化、画一化の嵐。

現在の時間観は明治時代になって輸入されました。時間は元々、多様なものだったけれども、近代になって画一化されたことを見ていきます。

 

 

 

明治初期まで寺子屋に子供たちは通っていたんですが、その時期に寺子屋は廃止され近代的な学校教育が確立されます。

 

それまでの教育下では、例えば漁村などでは授業中に「大漁!」の一報が入ると子供たちは筆を投げ、机を蹴飛ばし、大人たちの手伝いに駆け付けたと言います。

 

…やんちゃですね。いや、やんちゃではないのです。別に漁してる側からしたらその時にこそ人手が必要なのであり、別に授業時間とか関係ないです。子どもたちにとってもそもそも時計をまず気にしてないんです。

 

なぜなら共同体みんなで生きているのだから、問題ないんです、それで。近代化され分業化された世界では、皆きっちり時計を見ながら時間割に従って生活している中で一人だけ時間割からずれると他の人とかみ合わず、生活できません。

 

でも、共同体のみんな全員で時間割がズレるとどうでしょう。

全く問題ありません。皆で漁手伝った後に、ふい~って言いながら授業に戻ればいいし、ちょっと帰る時間遅れたところで、「今日の手伝い大変だったね~」ということで親が待ってます

皆その共同体の中のことを知ってるからです。

 

 

現代を見てみると、今は皆時計をつけて、時計に合わせて待ち合わせして、時計を見て仕事して、時計を見て寝ます。

 

明治時代には工業化、終身雇用制などで安定した生活を保障してくれました。と同時に個人は共同体から離脱を促されました。「個人」という概念が強くなった瞬間です。

そしてこの時の賃労働の一般化は、人々の意識に大きな変化を生み出しました。

 

それは共同体という共に生きる世界にあった「共有された時間」の喪失であり、個人が自分の時間を所有していると言う「時間の私的所有意識」の浸透である

 

 

時間が「皆との関係性の間にあるもの」から「個人で所有するもの」に変わりました。

これは今までは良い意味で捉えられてきました。周りに縛られずに、自分の時間を自分で使える、と。時間の所有権を持つことは、自分の未来を自分で決めていけることを意味していました。

 

 

しかし、自由な時間は、個人として生きることを要求する社会の中で未来への不安を生み出していきます

 

そして前述した「未来の為の今」化が促されます。

 

 

 

そして、この時、「時間」は画一化されています。朝も昼も夜も、1分は1分です。時計は同じ速さでしか進みません。僕の1分もあなたの1分です。時計はそういう意味で平等であり画一です。

 

ここで画一化に注目します。

画一化されたものは交換可能です。例えばあなたが有給休暇を取ったらその日に代わりの人員を増やせばいい。あなたの労働時間を他者で代替しています。

 

画一化された時間、画一化された人間は大体可能。平たく言えば、別にあなたじゃなくていい。誰でもいいということになります。

 

「僕じゃなくても代わりは無数にいるのかぁ…」

不安になりますね。

 

不安になると、「未来の為の今」化が進みます。未来の不確実性を減らそうとより多く働きます。近代で「働く」というのは、所有した時間を雇用主に売るということです。つまり、より多くの自分の時間(自分とみんなの関係性の中であったはずの時間)を代替可能な時間雇用主の時間に変換する作業です。

 

杉原学さんはこれを「時間の私的所有のパラドックス」と呼びました。

 

 

自分は代替可能な存在→不安→安心を得る為に今を売る→より代替可能に→不安→以下ループ

 

 

上記はあくまでそういう構造の一側面がある、ということですが、こういうぼんやりと僕らが普段感じていることを明示されるとドキッとします。脱近代を実行せねば。

 

 

真の自立とは

本当に示唆に富む話だったのですが、今度内田樹さんの本を紹介する時にそちらにまとめて書きます。

 

その代わり、僕らの時間観について「自由」に紐付けてもう少し書きます。

近代では、時間の私的所有を自由の獲得だとします。自分がどう過ごすかは自分で決めれる。うん、自由な感じがする。自由に時間を使えるから好きなことが出来て幸せになれる気がする。

 

 

しかし、古代ギリシャの哲学者エピクロスはこう述べています。

 

自己充足の最大の果実は自由である。

 

 

言いたいのは、順番が逆ということです。

自由の結果として充足があるのではなく、充足の結果として自由がある。僕らは「時間」が何かを分かっておらず、「自由」が何かを分かっていません。もっと正確に言うと、「時間」も「自由」も多面的なものであり、様々な意味を持ちうるということです。

 

 

この観点に立つとき、時間の私的所有が自由の獲得だとする近代的な価値観は、一つの幻想として浮かび上がってくる。 自己決定と自己責任を強制するこの価値観が実は人間の時間を収奪することによって自己増殖を遂げようとする資本の要求に過ぎなかったのだとしたら。 今行き詰まりを見せているのはこの時間の私的所有を基盤にした経済であり、社会なのではないか

 

 

逆に考えます。時間の私的所有が「自由」の源であるという考え方を変えて、「人とのつながり」から生まれる幸せが「自由」を生む、という考え方を世の中の主流だと仮定します。似たようなことをバウルの佐藤さんも言ってはります。

 

そう仮定すると、時間の私有意識は希薄化します。「自分の時間」という発想は無くなり、時間とはだれのものでもなく、強いて言うならば「人とのつながりの中にあるもの」になります。

そうすると「自分の為に自分の時間を使う」という発想はなくなり、もはや自分が生まれる前の過去や死んだ後の未来も共有の時間として認識されます。

 

 

これは凄いことです。伝統回帰。

昔ダメだとされた価値観、文化が今になって輝いて見える。もちろん“古き良き日本”が良い面ばかりではないのは分かっていますが、昔の日本をじっくり見つめるべき時だと思います。

 

 

 

他にも現代社会や資本主義経済への問題提起と示唆に富む話はいくつかあったのですが長くなったのでここらにしときます。その中でも「時間」の話は面白かった。

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