『資本主義のハビトゥス』


アルジェリアに資本主義が侵食していくときに、現地の文化、人々の前資本主義的な行動とどのような軋轢が生まれるのかを分析することによって、資本主義と前資本主義にどのような違いがあるのかを考えた本です。



 

ハビトゥスを規定する経済

社会学者、経済学者であるマックス・ウェーバーはこう言いました。

過去の多くの時代に関する経済史が「非経済的なものの歴史」と呼ばれるようになったことは、流行がないわけではない。それは現在の生活の条件においては、この限界効用理論と実際生活とは接近しているからであり、我々が判断する限り、ますます接近するだろうし、この両者の接近は人類の益々広範囲の階層にわたって、人々の運命を左右することになるだろう。

 

 

経済学者は経済学の理論をフルに使って、現在の状況を分析したり、これからの経済の未来を予測したりします。しかし、経済学の理論をフルに使っても経済を分析することは不可能なのです。なぜなら、経済は経済以外の分野からも多大に影響を受けているからです。

 

その一つがハビトゥスです。

 

ハビトゥス (habitus) は人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向。 ピエール・ブルデューによって用いられた。(Wikipediaより)

 

例えば、親が子供に料理を作ってあげた時に、料理の代わりにお金を要求したりしませんよね。それは、親は無償で子供を養うものだというハビトゥスが僕らの世界にあるからです。

僕らの価値観も経済の行方を左右しています。

 

さらに面白いことは、僕らの価値観は経済によって左右されているということです。

 

 

 

経済行為の主体は、ホモ・エコノミカス〔経済人〕ではなく、現実の人間なのであるが、その現実の人間は経済によってつくられるのである。

 

 

例えば、僕がネジ工場で働いていたとします。もう5年間くらい働いています。そうすると、毎月の給料はそんなに高給ではなく、生活も節約生活で株をやったり、起業したり準備する時間はありません。

そうするといつの間にか、そういった節約生活に慣れてきます。慣れてくるというか、その生活が当たり前だと思うようになってきます。そうすると、ねじ工場のオーナーに賃上げの交渉を行うこともなければ、ストライキを行うこともなく、どうにかして起業の準備をして一獲千金を狙う、みたいなこともしません。

 

そのような僕のハビトゥスは、経済的状況によって規定されていると言えます。

なので、経済にはハビトゥスが影響しているけれども、ハビトゥスは経済に影響されているという鶏と卵の関係性が出来上がっているわけです。

 

 

そして恐ろしいことに、自分の価値観が経済に規定されていることを自分で認識、把握することは非常に困難です。自分でも気づかないうちに、不満や苛立ちがたまり、それを発散することもありますが、近年起こっているPost Truthのような問題を引き起こす可能性もあります。あるいは、不満は受動的な諦めのままであるかもしれません。

そして、不満の爆発が過ぎると、反逆へのエネルギーはしぼんでしまい、目の前の機械的なイメージにだけ目を奪わて、問題の本質を見逃してしまいます。

 

著者は、「最も強力な抑圧は、抑圧についての激しい意識は伴わず、さらに、この場合、客観的状況の真実と、この状況についての意識との乖離は最も大きいのである。」と話します。

しかし、合理的で本質的な解決につながるような反逆の仕方を行うためには、合理的意識を養うための経済的条件が整っておかなければいけないという、これまた卵と鶏の関係性が現れます。

 

 

しかし、逆に言えば、現在の秩序は、それ自体で、自らの秩序の消滅の可能性をはらんでおり、その秩序の消滅を企図することのできる人を作らなければいけないのです。

 

 

仕事を辞められない理由

プロレタリアは収入が相当低くっても、その仕事行い続けるということがあります。それでは、違う職業に移ればいいじゃーん、ということになりますが、仕事をやめられない原因は経済的要因だけではないのです。

 

そこには、直近のお金を稼がなくては生活できない、という経済的要因に加えて、文化的な要因があります。しかも、二重の文化的要因。

一つ目の文化的な要因は、無職でいると「あれ、なんか皆働いてるのに、俺だけ無職ってなんか俺、頑張ってないのかな?俺、ダメな人間だあ…」という疑心暗鬼に陥るというものです。それを防ぐために割に合わない職でも無理やり続けます。

二つ目は、「あれ、俺ら汗水垂らして働いているのに、あいつ無職じゃね?さぼってる?ズルしてない?」というのを周りの家族、友人が思います。それを防ぐために割に合わない職でも無理やり続けます。

 

 

その文化的要因の背後に隠れる問題は、貨幣を獲得できる活動を行っていることが、人間が存在する条件のようになってしまっているということです。

貨幣収入をもたらす労働以外に真の労働はないという価値観は資本主義的論理です。

そこで、何かに従事する活動が正当化されるには、資本主義的論理と前資本主義的論理が入り混じった多義的なイデオロギーによるのだということが分かります。さらに上述した通り、文化的論理の中にも経済的論理が影響を与えているのです。

 

これは生活保護の問題にも、BIの議論にも当てはまると思います。

 

 

さらには、「数値化」を特徴とする貨幣が生活に入ってくることは家族の分裂の可能性をはらんでいるといいます。

前資本主義的世界では、誰がどれくらいの価値を生み出すのかは明示されていませんし、そもそも価値みたいなのを測ろうという発想自体薄いです。家族は基本的には、「価値の交換」ではなく、「互酬」もしくは「贈与」で成り立っています。

 

しかし、そこに貨幣という「価値の尺度」が入ってくることによって、父は○○円稼いでる、母は○○円、兄は○○円、弟は、、、という風に家族への(経済的)貢献度が明示化されてしまいます。

あくまで(経済的)貢献度であり、統合的な貢献度でも人間としての価値でもなんでも何でもないのですが、人間はわかりやすいものに流されます。

 

最初は、「お父さん、こんなにも無力な僕らを助けてくれてありがとう~♡」ということで、大きな問題は起こらないのですが、その後、「あれ?長男より次男の方が稼いでない?クソだな長男」みたいな価値観が生まれはじめます。その後、女性の社会進出などで、「あれ?別にお父さんに頼らなくても自分で生きていけるな、別に家族でまとまる必要なくない?」という思考担っていき、家族が解体されていきます。

 

それは計算の抑制の終わりであり、その計算の抑制こそは財産の共有によって維持され、またそれを保証していたものだ。

 

 

 

カテゴリー:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です