『貨幣とは何だろうか』


「お金とは何か」この問いに慣れ親しんだ経済学の観点からではなく、社会哲学という観点から切り込んだ示唆に富んで富んで富みまくる本。

 

 

 

 

 

貨幣は無くならない

まず、「貨幣」を語るとき、いきなり「貨幣」を語ることをやめましょう。

その時点で話が複雑化し、議論は必ず混乱します。

 

だからまず、「貨幣」を2パターンに分けます。

それは

  1. 物的な貨幣
  2. 媒介形式としての貨幣

です。

 

1.物的な貨幣は、「貨幣」と言ったら普通の人がイメージするようなお金のことです。

しかし、本書で主眼に置かれるのは、2.媒介形式としての貨幣です。

 

 

アダム・スミスもカール・マルクスもその他大勢の経済学者は「商品市場における物的貨幣」を前提に、それを当たり前として貨幣論を展開していきました。

著者によれば、既にその時点で「貨幣」を捉えれていない。スタート時点で間違っていると。

 

 

では、ここでは「媒介形式」というのは何を指すのでしょうか。

人間には家族がいて、村や町の中で生活します。そうすると、決して一人で生きるということはなく、誰か他の人を助け、助けられ、コミュニケーションを取りながら生きていくことになります。

 

人間が相互に関わり合うという事実は、実際には相互の「距離」を作り出しています。

これをジンメルは「距離化」と呼びました。「距離化」の別の名前は「制度化」です。

 

人間が生きるとは、社会の中で生きることであり、社会には必ず制度が介在します。

 

 

「距離化」には二つの意味合いがあります。それは

  1. 距離を置く
  2. 距離を縮める

という対照の二つです。

 

この距離が、我々の文化生活のあまりにも窮屈な接近と摩擦とに対する内なる保護と調整をなすのである

 

 

つまり「距離化」とはこの二つの機能を持って、近すぎず遠すぎずの自分が社会生活を送っていきやすいような人との距離感を、その場その場で作っていくことを指します。

 

 

そして絶妙な「距離」を保つための「制度」が、「貨幣」です。

人との関係の中に、「貨幣」(という形式)を挟み込む(媒介する)ことによって、人は社会的活動ができるのであると。

 

 

言い換えると、

「貨幣」とは、関係の中に生まれる何らかの「形式」であると言えます。

 

その実、“なんらかの”というくらいで具体的に規定することは不可能に近い。本書には、貨幣に「死」の観念が内包されていること、貨幣=人間であるということ、貨幣と犠牲は強力に結びついていること、貨幣=文字であることが記されており、「貨幣とは何か」に答えるには、「人間とは何か」「文字とは何か」「死とは何か」といった難問に答えるに等しく、ここでは“なんらかの”とさせてください。

 

 

ここで重要なのは、「貨幣」の本質は、物的な希金石でもなければ、価値の交換のための道具でもなければ、人と人との「媒介形式」であることを押さえることです。

 

 

 

 

透明と貨幣

貨幣論を展開させた歴史上のスーパーヒーローたちは数多くいます。その中の一人がルソーです。

 

ルソーは中間主義を嫌悪します。

自分は生まれたままの純粋な自分でいることが良いとし、何者にも覆われず、透明であることで初めて、言語、思考、共同体の「自己性 / 固有性 / 本来性」を取り戻すことができるとしました。

 

私と私の間に中間者が存在するならば、私の自己性は分裂する。およそ「私」の「分身」ほど恐ろしいものはない

 

 

ここでいう中間者とは「媒介形式」としての貨幣だと考えることができます。

 

 

そこで人間関係において「貨幣」を排除すべきという考えにルソーは至ります。

これは「個人」という単位ではなく、「共同体」という単位でみても同じことが言えます。

 

 

本書を読んで、貨幣が共同体のフィールドに入り込んでくるのに嫌悪感を覚える理由の一つには、「共同体は閉じられていて、純粋なものであり、第三者(貨幣)が入ってきて純粋さを汚すな」という汚れの認識があるからかと思いました。

 

しかし、著者の今村さんは、そんなルソーの言うような「透明」な状態はこの社会には存在せず、もともと「不純」であり、「汚れて」いるのであると述べます。それは、人間が複数の人間たちとともに生きるうえでは当たり前のことで、関係が生まれれば、距離は必ず生まれ、媒介形式も必ず生まれ、すなわち「汚れ」は起こるべくして起こるのです。

 

 

しかし、実際には、人々は、対他関係では直接的な透明共同体を、対自己関係では直接的な自己の形成を夢想してきたと指摘します。

 

 

上記の『貨幣は無くならない』で示した通り、「貨幣」は「遠ざけ」と「近づけ」の両方であります。ルソーは『人間不平等起源論』というカッコいいタイトルの本の中で、未開人は他人に出会うと最初は恐怖する(遠ざけ)と言います。

 

他者と円滑に交通できないからこそ、「貨幣(媒介形式)」が発露し、ピチエ(=哀れみ)(近づけ)と恐怖(遠ざけ)のバランスを取りながら他者との交通を行います。

 

 

 

知性の転換

ちなみに、長くなるので端折りますが、貨幣と文字は同性質を持ちます。

言語活動に対しての「文字」の関係性と、交換活動に対しての「貨幣」の関係性は全く同じです。「文字」に当てはまることが「貨幣」に当てはまるということは非常に重要です。

 

 

「文字」や「貨幣」は便利です。

どう便利かというと「文字」の場合、何かに文字を書いて考えてることを遠くまで運ぶことができました。音声言語ではそうはいきません。

「貨幣」の場合、先ほど記した通り、距離を調整してくれます。

 

便利な道具は、必要から生まれるので、みんなから必要とされ、世界中に広まります。

 

 

そこで一つ不思議な現象が起きます。

 

知の在り方が方向転換しなくてはならない。

 

これです。

 

知の在り方が方向転換しなくてはならない。哲学であれ、科学であれ、それが認識を仕事にする限り、真理の概念を手放すことはできない。問題は真理の概念の変更にある。知性の働きが文字あるいは書くことなしにはありえないなら、その文字性を知の可能性の条件にする方向しか選択肢はない。

 

便利すぎるが故に、文字をなくせないから真理の定義を変える方向に世界は動きます。「文字」と「貨幣」は形式が同性なので、「貨幣」にも同じことが言えます。

 

 

人間知は文字(つまりは貨幣形式)をその存在条件にしている

 

 

貨幣は、「真理」「私」「神」などの定義すらも変え得るということです。これはネオリベラリズムの侵食などで価値観が変わっていくことと重なり、すごく腹落ちしました。

立ち止まって、「媒介形式」のその効果を検証、少なくとも、意識して生きる必要性を強く感じます。

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