『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』


最近、結局重要なのはまわりまわって人とのつながりなのではないか、と思います。この本は「コミュニティ」についていろんな角度、色んな先人の現説を辿り、今までのコミュニティと今のコミュニティがどう違うのかを丁寧に追っていきます。主旨は一貫しており、非常にわかりやすいですが、これからのコミュニティの在り方について示唆に富んでいます。



 

 

 

コミュニティと社会

「人の集まり」は、「コミュニティ」とか「社会(ソサイエティ)」とかいっぱいありますね。

ニュアンス的にはコミュニティの方が、互酬的な意味合いが強く、地縁血縁に根付いた集団もこっちのイメージ。

社会は、もっと規模が大きくて、国とかのイメージ。

社会や国のプレゼンスが強くなると、コミュニティのプレゼンスは弱くなるとよく言われるのですが、本書では、そんなに単純なものではなく、コミュニティと社会は対立するものではないと説かれます。

 

さらには、このように、「コミュニティ」という概念は二元論では語ることが出来ません

 

例えば、「伝統」と「モダニティ(現代的なもの)」もいつも対立しているわけではなく、地方の村落のようなところにもテクノロジーは入っていき、モダンなものと融合していきますし、その村落の構造時代も現代的なものになっていきます。核家族の増加とか。

 

また、リアルとバーチャルコミュニティでも別にすっぱり分けることが出来ません。

一般的に、オンライン上のバーチャルコミュニティはリアルコミュニティの“薄い版”と見なされることが多いですが、別にそんなこともなく、どちらが濃いコミュニケーションでどちらが薄いコミュニケーションかということは分別できません。

さらには、リアルコミュニティの中でもLINEやTwitterを使うなどして、融合しているため、「コミュニティ」の概念をもっと柔軟に、イメージの思い込みをなくしていくことが大切です。

 

 

そのように、「コミュニティ」と「社会」は必ずしも対立しない、「伝統」と「モダニティ」も必ずしも対立しない、ということを鑑みると、いくつか見えてくるものがあります。

 

例えば、家族の変化です。人々が長い時間を過ごすコミュニティは「家族」でした。その中で家族というコミュニティが大きな役割を果たしていました。

 

しかし昔に比べて、家族と共に過ごす時間は減ってきました。家族と一緒に住んでいない人も増えましたね。

そうした変化があることで現在は「家族」というコミュニティに並び、「友達」というコミュニティが大きくなってきました。

風邪で寝込んだ時に看病してくれるのは、家族ではなく友達という役割の曖昧化、ご飯を作ってくれるのは母さんではなくてシェアハウスの住人など。

 

 

コミュニティの形式が変容してきており、現代では「友愛」という新たなコミュニティの形を模索しなければいけない時期に差し掛かっています。

 

 

 

 

 

政府的コミュニタリアニズム

コミュニティは、コミュニケーションとしてのコミュニティや、境界としてのコミュニティなど色々な側面を持ちますが、ここでは政府としてのコミュニティを紹介します。

 

コミュニティは新しい民主主義の形を提唱しているとも捉えることが出来ます。その一つが政府的コミュニタリアニズムです。

 

イギリスの社会学者ニコラス・ローズは次のように発言しました。

そのベクトルと力は個人的な便利や集合的な忠誠の実践、あるいは活発な自己管理やアイデンティティ構築の実践を促進し、活用する心理のプログラムや技術といった形を取る。私はこうした統治をコミュニティを通じた政府と命名する

 

 

なんかコミュニティってそのコミュニティ独特の“ノリ”ってありますよね。例えば穏やかな人が集まってるテニサーには穏やかな人が集まってきてより穏やかなサークルになり、チャラい人が集まってるテニサーにはチャラい人が多くなってよりチャラくなるみたいな。そうやってノリは作られていきます。

 

そのノリの中で、さらに人々はそのノリに適応していき、そのサークル色を獲得していきます。

これが大学のサークルレベルの規模ならノリで終わりなのですが、社会の中で一定数以上の規模を持ち、テクニカルに政府の中の一つのセクターとしてポジションをとると、それがそのまま政治的組織になり、そのノリが政策方針になります。

 

そしてこの「統治システム」は単なる社会党性の行使と見なさないことが重要です。こうしたコミュニティ自らが自分たちの生き方を考え、実践していくことで、コミュニティ(社会)を統治すると同時に、コミュニティ自身を活性化させる可能性があります。

 

例えば、ボランティア色が強いノリのコミュニティは、独自にボランティアの政策を作り、実施することになります。そのが統治であり、それを行うことによって、そのコミュニティが活性化します。イメージ的に直接民主制っぽいですね。

 

こういった形で独自の指標、独自のノリを潰されずに残しておけるコミュニティが増えてくるといいな~と思います。

 

 

 

自己実現

色々なものの境界や分別が曖昧になってきているというのは多くの分野にあてはある指摘で今日の議論の重要なポイントになっています。

ここでは、「自己」観にもそれが当てはまることを見ていきます。

 

昔は(今もかも)、階級、ジェンダー、民族などといったもので「まとまり」が作られていて、それによって絆も作られていました。その時代における自己とは、「○○に所属している」みたいな感じでした。

 

しかし今では、自己は様々な方法で発明することが出来ます。自己の現代的な解釈は統一性や一貫性、差異との関係で規定される社会的自己というものです

自分が独立的に存在するのではなく、関係性によって規定され続ける自己という新しいモデルです。

 

 

その前提で、イタリアの社会学者メルッチによると、新しい社会運動においては、私的なものと公的なものとの分離に基づかない集合行為への参加によって、大幅な自己実現が可能となると言います。

 

そこでコミュニティは、個人化された個人が、今日の集合行為への参加への基盤となることによって、個人は大幅な自己実現を果たすことが出来ます。

メルッチは一旦「個人」が主役になった時代を経て、再び公的なものになることは意味があると指摘しています。

 

 

そして、さっきのノリの話にも関連しますが、自己とは関係性によって規定され続ける存在であるので、常に変わり続けます。コミュニティとも同様に、所属メンバーや時代が変わればノリも変わっていくので常に変わり続けます。

自己もコミュニティも、「自分とはこれだ!!!」「私のコミュニティはこういうものだ!!!」と言い切れるものではなく、過程なのです。

 

 

 

トライブ

ベネディクト・アンダーソンという社会学者が「想像の共同体」というものを提唱しています。

今まで地縁血縁、もしくは特定の利益関係がコミュニティを形作る要因だと思われていたのに対し、アンダーソンさんは「想像の共同体」すなわち、何か同じようなビジョンを持っていたり、特性を持っていたりすることで形成されるコミュニティがあるということを提唱しました。

 

 

これからは想像の共同体的な「部族(トライブ)」が形成されていく可能性があります。マフェットという学者は、その「トライブ」をポストモダン社会における「集合的沸騰」と表現しました。

トライブは、想像や価値観を基に集まるので、それに伴う感情的&集合的な沸騰ゆえに一定の「再魔術化」機能を帯びると言っています。

 

再魔術化とは、論理どうこうでの説明がきかなくなることです。

昔、病気になった人は「呪術」とか「まじない」みたいなのを長老にしてもらってそれをみんなが信じていました。この時代は、論理的な説明を受けないのでこの時代は魔術化されています。

 

それから「科学」が出てきて、人々は論理的な説明を求めるようになりました。これが脱魔術化。

 

そしたら不思議なことに、科学が進みすぎて、その後ろっかわで何が起こっているのか分からなくなりました。例えば、AIがどのような情報処理を行っているかは理解することが出来ません。しかし、なぜかアウトプットは出る。これが再魔術化です。

 

 

これがコミュニティで起こるとすると、

地縁血縁で、なんかよくわからんけど、この人たちと一緒にいる、という魔術化の状態から、

 

会社で働くんじゃい!!って言って上京して、企業というコミュニティに属しだしたのが、脱魔術化

 

そして、う~んなんかよくわからんけど、このコミュニティ心地いいわ、なんか趣味も合うし、価値観も会うし、、、っていうのが再魔術化です。

 

 

これが新しいコミュニティの形なのかもしれません。

 

 

 

本書では、超多くの学者が登場しますし、参考文献も多く、超多角的にコミュニティを捉えています。一般的な「コミュニティ」に縛られず、自分の理想とするコミュニティを作り続けていけばいいのかな、と思いました。

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