『ひとりでは生きられないのも芸のうち』


内田樹さんは「当たり前のこと」しか言っていないと自分で仰っているけど、まさにそうで、そうだからこそ、当たり前を大事にできない現代に響きますね。

 

 

 

 

隣人愛

「隣人愛」とか「利他」的な言葉は何か薄っぺらいというか巍然っぽく聞こえます。「隣人愛」がほとんど仕事になってしまったのは、私たちが自分自身を愛することに夢だからではありません。

自分自身を愛するということが分からなくなってしまったので、隣人を愛する仕方も分からなくなってしまったのです。

 

どうして分からなくなったのか。

 

 

「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」を想定して、それに他の全てが従属している状態として自我をイメージしているからである。私はそう思う。

 

 

 

「本当の自分」「真に私らしい自分」というようなものがあると思い込んでいて、雑多な人格要素がごちゃ混ぜの状態で混在している現実の自分をそのまま愛することがうまくできなくなっています。

 

このごちゃ混ぜの自分という概念は、『私とは何か—「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎 ~諸悪の根源は「個人」~を読むと理解しやすくなります。

 

 

誰でも自分の中に醜さや弱さを抱えていて、誰も憎まず、誰にも欲望を抱かない人間など存在しません。そういった醜い自分の一部も受け入れるところからしか、「自分を愛する」ということは始まりません。

 

自分の中に混在している多様な人格要素をゆるやかに内包しつつ、共生することが必要です。「共生」とは、自分の弱さや邪悪さに「屈服」することとは違います。「屈服」とは、自分自身がそれになってしまうことです。「共生」とは、自分の弱さを隅々まで観察し、それがどのような振る舞いをするかを熟知していて、それでいて気にしない。涼しい顔をして受け入れるということなのです。

 

 

 

そうして初めて、自分を愛することができ、隣人愛に向かうことができます。まあ、隣人愛と言うと大げさに聞こえるので、「優しく」なれます。

 

 

 

真の自立

自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しも良いものだと思っていない。

 

誰にも依存しないで生きている人を「自立した人間」と褒め称える傾向がありますが、そんな生き方は楽しくない、と著者は言います。

 

 

それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。

 

 

自分の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれ、洗い物もアイロンかけも、ゴミ出しおトイレ掃除も全部してくれる。してもらうことで空いた時間で、自分はその人の為にお金を稼いだり、ご飯を作ったり、選択をしたり、アイロンかけをしたり、ゴミ出しやトイレ掃除をする。

 

一人でできることを二人称で行う。これが本当の「交換」だと。

 

 

キャッチボールは何の価値も生み出していません。経済合理性を信じる人には、これはエネルギーと時間が消費されるだけと判断しますが、実はここに交換の本質があります。

 

キャッチボールは一人ではできない。私が投げる球を相手が「パシッ」という音と、補給した時の掌の痺れのうちに、私たちはその都度相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを要請されていることを知ります。

 

 

 

「その人なしでは生きていけない人」が増えることは生存確率を高めます。自分でなんでもできた方が生存確率を高めるというのが一般的ですが、それは短見です。

 

 

「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は、「私」が無能であることを示す言葉ではなく、「だからこそあなたにはこれからもずっと元気で生きていてほしい」という、「あなた」の幸福を願う言葉です。

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